Wednesday, June 3, 2015, 13:46
(2015.6.3 am5:23)
その方の、意識の地獄(魔境)を
追体験させられるので、
その方の、負の遺産を、背負わされているような、
気分になります。
自分で蒔いた種は、自らで刈り取るのが、
ルールなのでは、ないのか
何故、自らでつくり出した原因の処理を、
他人に背負わせて、処理をしてもらおうと、するのか、
宗教というものに関り、自分にとっての都合のよい
カミさま、というものを、いつまでも自らの存在のうちに
置き続けていたい人間は、
何ものかに依存をし続けるという行ないを、
死ぬまでやめたくはない、方達なのでしょう、
光を当てれば、それらの闇は活性化し、活発化することに
なります。
それらの闇のエネルギーを認識できる方にとっては苦痛です。
その方の地獄や魔境的意識を、自らの小宇宙のなかで、
追体験を、させられるからです。
自らの意識領域を広げ、自らのうちなるものとして認識をし、
その意識領域内で処理をしてしまわない限り、
意識は魔境や地獄に、とらわれて
出口の見えない堂々巡りをすることになります。
他人を平気で呪い、逆恨みのエネルギーを放射して、
“自分は何も悪くはない”という主張を前面に出し、
全主張をするものに墜ちてゆくことになります。
自らの、器としての許容量の(少)ないものにとっては、
その、対峙させられている、見たくもない現実を呪い、
その、不遇な状況を、自分以外の何ものかのせいにして、
自己の正当性を主張するものに墜ちてゆくことになるのです
魔界や魔境で生きるものとは、そのようなものであるから
なのです。
はじめから、こたえがそこに置かれていることの意味を、
読み解くことが出来たものには、次の段階の学びが
与えられることになります。
道は険しく、自らの中に中心軸のないものにとっては、
ふらつき、ぐらついて意識の谷の底へと墜ちてゆくことに、なるのでしょう。
“何を、学ばなくては、ならないから、あなたは、人間を、やっているのか”
ということ、なのです。
人の足を引っ張り、足止めをさせているものが何なのか、
まだ、お気付きになりませんか、
自らが重荷となり、おもりとなって、何かにしがみついている
という状況に、まだ、お気付きになりませんか、
あなたは、何を、その人生で学ばなくてはならないから、
今、人間をやっている(している)のか、
と、いうことなのです。
気付いた人間から、そのステージにおける出口を見つけ、
次のステージへと進むことが、出来るのでしょう、
同じことは繰り返し、お伝えしました。
何を、学ぶために、あなたは人間をしているのか、
と、いうことなのです。
(以上)
(2015.6.3 am8:30)
“自分が自分に
躓いているだけなのに、
他人のせいにして
逆恨みをする人、
恥ずかしいとは、
思いませんか?”
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Saturday, May 16, 2015, 07:43
(2015.5.15 am9:30)
地球の神は
光と闇の合体物
人間は その神の姿を
写し(移し)ているに 過ぎない
人間のみが その
光と闇を 分離し
分けて処理をすることが
出来る 存在
これからの この世において
その 光と 闇を
分離して
未来に向かって 進むことが
出来るという
その 人間性の
可能性
というもの
あたらしき 時代においては
誰でもが 自ら自身の
救世主となることが
できる、と、
お伝えし続けていることの
意味を
読み解くことが
出来たなら、
次のステージへの
扉 というものが
あなた方の存在のなかで
開(ひら)くことに なるのでしょう
自らの、意志と 判断により
行動を 起こすということが
重要視されている
ということに
気が付いた ならば
今 そこにある 問題を
解決することが できるのは
ご自身でしか ない
という
シンプルな こたえが
そこに置かれていることに
お気付きに なられる
はずです
人に 頼って
なにかを してもらおうとする
と、いうことに
自らの意志で
決別を した時に
あたらしい 時代への
参加をする
エントリー資格 というものが
与えられることに
なるのでしょう
何かの判断に 困り、
迷った際に
考えを あおぐ
というかたちでの 相談
というものは 受け付けますが
あくまでも 主役は
ご自身であり
ご自分の 判断 で
行動を される ということが
求められます
人の子の 世 とは
そのようなもので あるから
なのです
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Thursday, March 12, 2015, 16:59
(2015.3.11 pm7:50)
世の中には、もっと不幸で、かわいそうな人が
沢山いるの。
自分の今の状況が、どれだけ苦しいか、
という主張を、し続けていたいうちは、
世のため人のためには
はたらけません。
何故なら、自分のことが 一番大事だから。
“人様のために、自分をはたらかせて下さい”、
と、祈ることの出来る人には、
ある領域へと、つながることが出来るの。
それが、何故か。
そこには、利己的な(自分のための)
主張というものが、一切、介在していないから。
“何で、わたし、こんなに苦しいんですか?”
という疑問を持っている人は、
自分ではない 他者からの解答というものを
死ぬまで求め続けている人。
あなた方の能力が高まると、
当然のことながら、他人からの闇のエネルギーが
入ってくるようになります。
そこには、あなた方が これまでの人生において
関与してきた、英語圏由来の悪魔的エネルギーも
当然含まれてきます。
自らの存在のうちに焼き捨て、始末をするという
覚悟が無い限り、
それらの悪魔的存在は、あなた方のうちに
棲み家を得ることになります。
自らのうちに、それらを排除し、始末する
という、決定的な意志が 存在をしていない限り、
誰かに、あるいは何ものかに、
それらの始末や処理を、お願いし、
自分以外のものに、何とかしてもらおうとする
思いのようなものが、沸き出てきます。
それこそが、キリスト教が、この二千年に
わたって、つくり出してきた、
「自分以外の救世主」というものなのです。
『最終知識』が、指し示していることは、
自らの存在のたましいの救世主は、
“自分自身である”、ということなのです。
キリスト教圏の方々は、この二千年の
呪縛というものに縛られ、
その意識領域から、逃れることが
できません。
先人達が伝え続けてきたことが
正しいと信じて疑わないからです。
たった1人の発起人が立ち上がり、
何かの、あるいは、何ものかによる宣言を成すことが、
ひとつの小さな変化の、きっかけと成り得ることが
出来るのです。
ただし、その時に試されるのは、勇気です。
自らが筆頭となり、選手宣誓のような
ことをして、
これから先、たった1人になってでも、
たたかい続ける勇気があるのかどうかが、
試されることになるのでしょう。
やるのもやらないのも 自由。
“すべては、人の子に委ねられている”、と、
お伝えしていることの意味を、
ほんの少しでも読み取ることができるのなら、
何故、わざわざ、英語圏のエネルギー領域に
関与し、携わることになったのかを、
考えてみることです。
知るものであるからこそ、出来る事があり、
知らざるを得なかったからこそ、
その苦しみというものを、自ら自身が既に、
現実のこの世において、体験をされているはずです。
何を選び、自らがどのように行動をして、
この先の 人生をまっとうするのか、
それを、お決めになるのは、
ご自身でしかない、ということなのです。
人の子は自由であり、何をどのようにしてゆくのかも、
全てはご自身の意志と選択に
委ねられているということです。
これで解答になりましたでしょうか。
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Tuesday, February 17, 2015, 14:48
(2015.2.10 pm9)
“一番問題なのは、
宗教的概念を持っている人達”。
どこぞの何かのカミさんが、
自分のために、どうにかしてくださる。と、
死ぬまで思い続けていたいかた達だから。
一生懸命お願いをして、お祈りをしてさえすれば
どうにかしてくださると、信じて疑わない
ひと達だから。
自らの意志と判断で行動し、
未来を切り開いていくひとたちとは、
対極にある、ということ。
自らの責任をカミに(背)負わすことが平気なかた達は、
自分にとっての都合のよいカミさま、というものを
常に自分の意識のなかに持ち続けていたいひと達のこと。
そのような方達には、残念ながら
次の時代のこのクニの未来をつくるための
エントリーは、なされていません。
自らのつくり出した 幻想の お話のなかに、
去って行かれる かた達なのでしょう。
宗教の時代を終わらせるということと、
次の時代の未来づくりへのエントリー
ということは、イコール同義で、おなじことなのです。
ある種のエネルギー関係でソウサされた
システムというものを終わらせるために、
あたらしい未来づくりのルールのもとに、
エントリーをされるのですか、それとも、
古いルールのエネルギー層のなかに、
とどまり続けていたいのですか、
ということなのです。
上下の関係を、わざわざつくり、
自らが上位に立ちたいという立ち位置で
存在の確認をし続けていたい方達にとっては、
これから先の未来づくりのために
エントリーをすることは難しいことなのでしょう。
時代の変わり目を認識し、
方向転換をして新しいルールの中での
生き方を模索する方にとっては
とてもよいチャンスなのかもしれません。
混沌とした、今のこの時代の世の中のなかで、
自らの軸足を、どちらの方向へ、向けるのか
ということなのです。
他人を支配し抑圧して、気分のよいと思われる
かた達にとっては、
とてもではありませんが
新しい時代のルールにおける
はたらきの場、というものは
用意は、されていないことなのでしょう
他人の苦しみを知り、受けとめてあげることの
できる能力を持つものにしか、
次の時代への参加は、できないからです。
自らの傲慢さを、誰かの、あるいは何ものかの
せいにして、自身の正当性を声高に主張を
し続けるものに
次の時代へのこのクニづくりへのエントリーは
記録されてはいないから(ためだから)です。
どのような おこないや
どのような はたらきかけが
このクニの、ひいてはこの地球の
未来を変えてゆくことが
できるのでしょうか
そのことについて 真剣に考え、
行動を起こしてゆくものたちが、
このクニの未来を、
あるいは この地球の姿かたちというものを
変えてゆくことのできるものたち
なのです
知識は すでに このちに(地球に)置かれています
そのことの意味を よく、考えてみて下さい。
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Tuesday, February 17, 2015, 14:47
(2015.2.7 pm10:)
「死に方の責任」
よく生きるということと、よく死ぬということは同義です、
よく生きたものは、道を汚(けが)さずに去ることを望み、
あとから来るもの達のために、道を整えながら、去ってゆくもの。
人間は、生まれてこの世に生を受けた瞬間から、
死に向かっての時間を刻み続けてゆく生き物であるということ。
あなた方に課せられた重荷について考えるとき、
どのようなこたえが最良のものであるのかについて、と
問われるのであるならば、それは、「知識は既に、このちに
置かれているのです」という解答しか、ありません。
“何故ゆえに”と、問い、そのこたえを探すための思索をする
ということが求められているということに既に、お気付きに
なられているはずです。
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