Monday, February 18, 2008, 13:26
(2008.2.16 pm8:55受)
つめよる 群衆の
息まくこえは
一体何を あらわすものでしょう
はなれた せきから
みをのりだして
わが身 わが身の ためだけに
おんけいと たすくるものを
もとめても
しんの い などは
つたわらず
とらわれの 身から 解放を
されることだけを
もとめて
すがりより ぶら下がる
たんなる おんけいをえたいなら
すくなくとも さきに
あらかじめ まなびを
すませてから
それが 最低限の
ルールでは ないのですか
なんども 何度も
しつこい ようですが
ひつようなのは
はたらく にんげんであり
自分が たすかりたい
にんげんでは ない
いつになったら
わかって いただけますか
じぶんばかりが
たすかりたい にんげんなど
必要は ないのです
恩恵をさずけてやる、という
ものたちに おかねを
支払い続けた結果
なにかの 正しいこたえを
えることが できましたか
ある種の忠誠心のようなものを
求められて、それに したがって
いわれるがまま
指示されるがまま
言いなりに なってきた
だけでは ないか
自らの 生きる 基準とは
一体、何ですか
指示された通りに、他者の
言いなりになって、存在を
することなのですか
自分自身の行動を、自分自身で
決めることさえできぬものが
向かう方向を定めることなど
できますか
すくなくとも、まず最低限、
知識を学んでください。
それが 基本です
土台さえ無いものに
何をどのように伝えても
それは 机上の空論でしか、ない
その知識を受け入れることが
できるなら、
浄化や上昇の意味、
というものを素直に
役立つものであることが
受け入れられる はずです
知識があり、
その基本的なベースというものを
携えていないと、空論だけの
たすけを求める思考に、
なってしまいます
何度も言うようですが
自らが 助かりたい人間は
必要ないのです
はたらかなければならない
意味を知り、その役割を
果たすための学びが
精神学 なのです
自らが助かりたい人間が(は?)
要らない、と 言っているのは
他のために 自が、はたらく
という基本を
受け入れたくない ひとたち
だからです
自分さえ、よければ よい、という
にんげんは 要らない、
と言っているのです
まだ、わかりませんか
精神学の基本を、まず
学んでください。
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Tuesday, February 12, 2008, 15:28
(2008.2.9 pm7:13受)
はん ならの
かいじ
みとさ(しゃ?)
みとしゃ
つくられし
いとのしくみの
その さきの
たちどまる あしあとの
いと する
わの いみ
きくみみを もて
もたぬ ものには
さきは ない
き じく と はぐるまは
いっしん どうたい
きじく とは たていとの
いみを あらわし
そのはたらきの いを
しるものに はたらきかけ
なすものの うごきに
れんけいと れんどうを
ひとたび うごき つかまつりた
き じくの はたらき
すなのいとする
とけいの いみを
すこしづつでも
かんじとりうる
もののみに
しじとしれいは でんたつを
され はやすぎず
おそすぎず
そのとき そのときに
あわされて
すべての はなしは
すすみゆく
あらそいのない よのために
うごきたまへ
よくあつと しはいのなき
よのために
うごき つかまつり たまへ
なすべきこととは
自らが えらびぬいた
手段により
はたらきかけること
であり
適材 適所という
きほんに のっとり
おのおのの はたらきは
うごき はじめる
どのような かたちで
その ひつようせいを
つたえ あらわすのかは
おのおのの はんだんに
ゆだねられ
ある ひ あるとき
それを 受け入れることの
できる ものの ところへと
つたえられる ことに
なる
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Thursday, February 7, 2008, 17:40
(2008.2.7 am11:23受)
かみと かみ
との つらなり つながり
カ と ミ
カ と ミ
すがたかたちの
つながり つらなり
かん なり
つづら なり
も と そ の
うつり の わ
はや いそ
たける の み の わ
つづら なり
うつら つづら
つづら なり
こん の
う つり
つづら なる
み の わ
わ き なる を
わ き なる を
さがし たまい
わ き なる を
うつ づら なりの
しん の いと
とり かえし
しづくの なかに
とり かえし
つらの つづらに
いでし かも
まい を みで
みで の
いみ たる
いしゅ たる を
た た あり
あり ぬは
くし つる うる を
カ カ ミ と
されたし
されたし
わかを
うつして きりぬる
きりぬる を
わかを み
みぎりの
さん と しん
つづらの うけひを
しめするは
もいだ きのみの
しめする さきに
たた なり ぬる をは
しめしの うつし
もんを あけよと
つたふる わかみ
とんざを されては
なりませぬ
ちくいち ほうおう
きかしめ たまひ
つづら なり
つづら なり うる
よ と そ の うけひ
うけひ つらなり
うらなりの つらなりに
まいた たねと
かへし ま つる は
うらなりて
うらなりて
さん しん
さん しん
さん しん の しん
うごき つかまつり ては
さん しん の
つづら なり
いきた きおくの
まの なかに
いき しの きおくと
ともに あり
うつる つづらは
ともに あり
(2008.2.7 pm4:25受)
かんのこの たま
こだま
たまのこの あいだ
めざましの ようい
とらわれの みと
なりうる ものには
いっさいの てだしを
させては なりません
むいの うちに
さくじょを された
もの
とおり あめの ように
とおりすぎては
さってゆく
あらわされた
その すがた とは
みんい に そぐわぬ
はなれ じま
つくりた たまを
うごかす ために
そしりを うけ
あらぶる ものとの
しるしを うけて
みぎのもの を
ひだりの ものに
ひだり とは
ひの たりぬ もの
あらそいごとを
このむ ものは
そのけっか もたらされるものが
何かを しらず
その しまつ の ほうほうさえも
知ることは
ない
みぎりのものとは
みかぎりた もの
つくした おんぎの
いみ さえも 知らない
もちつ もたれつの かんけいを
続けることが
ただしいこと では
ないことであること ぐらい
すでに お気付きの
ことのはず
つくした ことに たいする
代償や 見かえりというものを
もとめては
ならないのです
はらったものを とりもどそうと
することは
じかんの 無駄でしか
ないのです
まもる ことの いみ
かこいこみを しようと
すれば するほど
てばなす ことに
みれんが のこる
およがせて
見まもる こと
てだしを しては
ならないのです
見とどける ことの
いみ とは
はなれゆく ものたち への
おもいや 未練を
残さぬ こと
それを持つ かぎり
見えぬ いとの ようなもので
つなぎ とめられる ことに
なるからです
きく みみを 持つことの
いみは
全(すべ)ての ひとが 平等で
あることの いみを
自らに 問わなければ
ならないことを
忘れていては ならないからです
いとした けっかが
えられなかったと しても
それは 世の はじめから
さだめられている お話に
すぎないのです
演じているものは 自らが
その 主役となり
あらかじめ さだめられている
お話の主人公を 演じているに
すぎないのです
何も恐れる(怖れる)ことなど
ないはず のこと です
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Sunday, February 3, 2008, 14:44
(2008.1.31 pm5:05受)
はじまりのおわりとは
かくなるものに
なりぬるを
いとの切れた凧のごとき
さまよえるものと
なりぬるか
はた また
つくり たがやし
植え付けを なしては
みのりを えるものか
とっかかりの 戸口の 扉を
あけたまい
つぎの(次?継ぎ?)ステージへの
歩みを 意図するものに
なりぬるのかを
歩け あるけ
踏みしめる その 足跡は
だれか ではなく
あなたが つけるもの
だから である
(2008.1.31 pm5:05受)-2
つるぎの意図するもの
とは
たたかいを 続ける
意志で あり 意思では ない
問う道の あり方とは
己が探し続けるべき
ものであり
人から 授かる ものでは ない
自らの 足で あるき
自らの 意志で 探し続ける こと
いとの切れた
凧に ならぬよう
進むべき 道とは
自らが 見すえるもの だからです
誰かに 引っ張ってもらうという
考え方を やめない限り
自らの足で 歩いているとは
言えないのです
自らで考え 行動が出来ない限り
あなたがたは 解放される
ことは ないであろう
くびきを外し 自らが1歩
足を前へ出すことの意味が
わからない限り
あなたが今いる そのステージから
抜け出すことなど
できるとでも お思いなのか
ある(歩)かないものの 言い分は
決まっている
あなたが助けてくれるのではないのか
そうやって恩義を押し付けて
こころの安心を与えてやると
言い続けてきたものが何なのか
知っているはずのことである
ひとり ひとりの にんげんに
その たましいの レベルの差が
あったとしても
導いてくれるものに頼っている限り
存在するステージが 変わることは
無いであろう
自らが目指すものとは 何なのか
そのために はたらくのは
あなた自身だということに
何故 気付かない
目を覚ますという意味が
わからないのではなく
自らが努力をすることを拒否しているという現実を
見たくはないだけではないのか
考えるために 浄化と上昇が
あるのです
どの選択が的確なのかを考え
現実に動くのは
あなた自身なのです
自らを導いてくれるものに頼っている限り
「それが羊である」
という現実の中に自らが存在しているという事実を
お伝えしなければ
ならないのでしょう
時間が限られている という現実は
全てのものに いえる事実であり
特例というものは
存在しません
一足飛び というルールを
期待するのであれば
あなた自身が それ相応の努力と
はたらきを するしか
選択肢は ありません
指をくわえて 待っていて
何かが 連れて行ってくれるのだと
思っているのなら
その考え方を捨てない限り
あなた自身の存在するステージというものは
変わることなど
あり得ない でしょう
自らの意志で自らが変わろうとしない者は
“目覚めない者”
なのです
既に お伝え済みの
ことでしか ありません
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Monday, January 28, 2008, 11:32
(2008.1.27 pm6:42受)
ヒムカヒノ ハヤト
ウツヰノ ミコトト
ナリヌル ハ
クトウト ウツシノ
ミムカイ ニ
ウツル ツルシタ
マツリノ ウツワ(器?打つ輪?)
トドコオリ ナシ
サシ チガイタル
モノニハ
ツルス マツリノ
イミ ハ ナイ
ウコキタ タマハル
マツリノ イミホ
チガヒタ モノフハ
トリチガヒ
チミ ト モウリョフ
ウゴメク マナカ
イト ノ ツルスル
サシ チガヒ
チチト ハハ ノ
テイキョウ スル ソノ マナビノ
バノ イミホ シレ
マガイタ イミ ニ トラヘ
ツゴウノヨキ ジンセイノ
ソウサク ヲ ノゾムモノ
セキニン ホ(ヲ) オウコトノ
イミ サヘモ シルヨシ ナド
ナヒ
ミヅカラノ オンケイ ヲ
モタラスモノニ トリスガリ
ミヅカラノ アシデ アルキ
マエニ イッポ フミダス コトノ
ドリョク サヘモ
ツチカウコトスラ シナイモノ
オキニ ウカブ オオキナ フネニ
タヨリ テイキョウサレタ
マナビノ イミサヘモ シルヨシ
ナドハ ナヒ
ハヂヲ シレ
ヒツヨフ(ウ)ナノハ
ハタラク モノテ(デ)
ミヅカラ ガ タスカリタイ
モノデハ ナヒ
タニンノ タメニ
ジブンヲ ギセイニ デキルモノ
タダシイ ギノ タメニ
ユウキ ヲ モツコトノ デキル モノ
カンチガヒ ナサレルノモ
カツテ ダガ
アナタノ ココロノ ウゴキ サヘモガ
キロク サレテ イルコトニ
キヅクガ ヨヒ(イ)
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