Friday, May 11, 2007, 14:02
(2007.4.13 am11受)
“しんのやみ”
しんのやみ
とは
真の闇、神の闇
かみは 光と闇との
組成物
ひとは その姿を
反映しているに 過ぎない
ひかりを求めて
闇に沈む
その振幅の
度合いに 大差が
あったとしても
ひとは
それを繰り返しながら
成長をし続けるものである
というテーマを
自らが
あらわに しながら
生きているに すぎない
堂々めぐりのように
思える その繰り返しが
時間の経過と共に
少しずつ その範囲を拡張させ
拡張と収縮を
くり返しながら
自らのpossibility
(可能性)というものを
拡張させていっている
という法則性に 過ぎない
人間ひとりひとりに
小宇宙が 有る、といわれている
理由は 理屈という視点を持ち
考えれば
誰にでも理解出来るものに
過ぎない
全ては物語に すぎない
その物語を どのような
内容にするのかを
自らの意志で決め
自らが行動をし、
体現をしてゆけ、という
テーマでしか、ないのである
多くの人間が
何かの勘違いを
している
自らの指針や、基軸というものが
はっきりとしない
あるいは 周りの状況に
影響され
すぐに ぐらつくようなものが
何かの助けや救いを求めて
やって来る
宗教というものは
そのような救済を
求める人間達を
“カミが助けてくださる”
などという
何の根拠も無い虚言で
意識を操作し、操り、
団体として更に その存在を
拡大させようとする目的のみで
資金をまき上げているに
過ぎない
“きっとカミさまが助けてくださる”
と言いながら 状況が一向に
変わらない
あるいは悪化をしつつある時に
決まって かけられる言葉は
“あなたの信仰が足りないのだ”
“あなたの施しが足りないのだ”
………
そうやって 他者を 教導し
思いや金銭を集めた
責任は 一体どう取るのかと
尋ねているだけの話である
責任の所在を
すり替えるな、と言っているのだ
あなたのカミが “そうしろ”と
言ったのであれば、
それは すなわち 人間としての
あなた自身の責任である
自分自身で その責任を
負うがよい
それが 絶対的な
ルールである
いい加減に 自分以外の存在に
責任の所在を すり替えるのは
やめたまえ(給え)
所詮は あなたが心に思い
あなたが口から出して
あなたが行動しただけの
話である
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Wednesday, May 2, 2007, 18:14
(2007.1.15 pm6:20受)
甘い期待をぶち壊し
ご利益(りやく)あると 思うてた
“カミ”とは いったい
何じゃろな
皆がつくって くれるのじゃ
自分にとっての 専用の
都合の良すぎる カミさまを
それで 願いが かなうなら
人間やってる 意味は 無し
けものの道に落ちてまで
楽して生きて ゆきたくば
とことん落ちて ゆくがよい
きどう修正する意志を
抱いて遂行する限り
修正可能と 言うておる
選択の自由は与えられて
おるのじゃが
残念ながら、ふたつに
ひとつ と 決まっとる
もん(悶)もん(問)もん(門)と
しながらも
うすうす気付いて おるじゃろな
“ゲート”(門)は 手元に
あるのじゃよ
道草くってる 場合でない
先の時間を考えて
さっさと行動する時期じゃ
時間に限りが あるのじゃと
お知らせする日が 来るじゃろう
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Friday, April 27, 2007, 12:29
(2006.10.20 pm4:55受)
伝達事項が あったとしても
おもてに出しては いかんのじゃ
全て、月、日が決まっておる
開示をしては いけないことも
含まれて おるからじゃ
わびしき こころの持ち主は
伝える覚悟の なきゆえに
途方もない時間の流れの中を
ただ 彷徨っているだけじゃ
すべては あわの中に くるまれて
ある ひとつの目的のために
存在している
みどりが池の ため池の
外に はい出てみなければ
何も見えては こんじゃろな
ほうこうてんかん(方向転換?)
なされてみては
いかが かな
まずは じぶんのために生きなされ
それが できたら
ひとの ため。
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Sunday, April 22, 2007, 20:29
(2006.12.1 pm2:30受)
どうも困ったことになっておる
ようじゃの
何故 自分ばかりが不遇な目に
あわされなければ ならないのか
理由がわからなければ
ハラの虫が、おさまらんようじゃな
まわりに まいてしまっていると
うすうす気付きながらも
一度 着火して 内部で
燃えさかっている 炭火のように
すぐに消し止めることが
できない からじゃ
火を いこして
ますます 燃えさからせているのは
たにんのせい
という思い込みが いちど
なされてしまうと
冷や水を びしゃりと
かけられない限り
おさえることは できんじゃろな
きっかけや それだとじぶんが
気付くまで
おさまりようも ないじゃろな
ひとの あらには 気付いても
じぶんの あらには 気付かない
気付いた しりから なおしてゆけば
ひとは 変わって
ゆくのじゃが
いこした タネ火の 火の始末
じぶんで やるのが ルールじゃろ
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Saturday, April 21, 2007, 15:44
(2006.7.12 pm9:40受)
適材適所の、その配置、
しぼんでしもたら、いかんのぞ。
乾いた大地のヒビの中、
時を待ってる 種(タネ)がある。
あらゆるかたちで横やりを
入れようとするものは存在する。
中心の揺らぐものを、かけらでも
持っていては、ならないのです。
確固たる意志、というものを
ちゃんと離さず握りしめていなさい。
あの書が、一体何のために
必要なのかを、考えなさい。
あなたがたは、まだ気付いていないのだ。
あの書が、どういった役割を
なされるものなのかを。
ひとつのところで、はじまったものは、
ある一定量を超えると、
全く離れた別の場所においてでも
同時に同じことが起こりうる。
はじめる前から、狭い範囲に区切って
物ごとを考えてはいけない。
その時点で、自分自身で制約を
かけてしまうことになりかねないからだ。
今日、これが出来なかったと、
うじうじ悩むより、明日は何を、どうしよう、
ということを考えるようにしなさい。
前を向いて生きてゆく、とは、
そういうことだ。
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