通信-19年7月11日 
Wednesday, July 31, 2019, 13:50
(2019.7.11 am9〜受) 

他人の持ち物をうらやましい、
と、思う前に、まず自分が何を持って
生まれて来たのかを考えるべきです
人の持ちものを横取りして
奪おうとすること、
それが、この地球における
人類という種の生き物が
長らくの間 し続けて来た、
カルマというものです
人から簒奪して、奪い取り
じぶんのものにすること、
にんげんという種の生き物は
そうやって、他者からものを奪い取り
自分のものにして所有し執着をして
生きてきた、生きもの、
自らのうちにある、本来の生きる目的に
気が付くこともなく、誰かの、何ものかの
何かを妬み、奪い取るために、
あれこれ画策をして、手に入れようとするもの、
あな、おそろしき生きものたち、
人を生かすために、はたらくのではなく
自らの利のことしか、頭にない、生き物
罪人の意識の、みじんもかけらもないものたちが、
そのようにして思念を飛ばし
他人を貶め、奪い取ろうとするものたち、
それらのにんげんの行ないが、
これから、それらのあがないの結果として
返される(帰される?)ことになるのであろう
あな、おそろしき、生きものたち
自らが与えられたと信じて疑わない領域から、
平気で盗み奪い取り、搾取をして
平然と生きるものたち、
あがないを 受けよ
それが ものごとの 理(ことわり)
というものであり、この宇宙の法則のもとに
置かれた、ルールというものである、
にんげんの強欲さと高慢さが
このちの歴史をつくり続け、その結果を
受け取るということであり
それが、ルールというもの、
強欲で、貪欲な、欲しいものを
自らの手に入れたいものたち、その事実は
記録され 記憶とともに保管が成されている
あがないを受けよ、
カミのものはカミのもの
ヒトのものはヒトのもの
それが、ほんらいの正しきルール
というものである



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通信-19年5月6日 
Tuesday, May 7, 2019, 18:22
(2019.5.6 am8:55〜受) 

“旅の仲間たち、
 旅はもう、
 終わりに近付きつつある。
何の用意が必要なのかを、
考える時が近付いている、
あなた方に、何が託されて、
どのような未来をつくらなくては
ならないのかを、
一人一人の人間が、
生命を持つ、あなた達が、
自分の頭で、考えて、つくり出してゆくための
準備期間というものが、
これまで。
自らの意志で、選び、
自らの頭で考え、行動し、
この先の未来の姿、形、ありようというものを、
創造してゆくことが
求められている、ということなのです
旅の、仲間たち、
苦楽を共にした、
旅の、仲間たち、
生きて、身体を持ち、
存在をすることの、
苦しみと悲しみを、知る者たち、
あなた方に託されたものが何なのか、
もう、判断が、
出来ている筈(はず)です、
努力をしなさい、学びなさい、
その先に、得られるものが何なのかを
知るものたちには、
永遠のいのち、というものに、
入ることが、できるのでしょう
それは永遠の生まれ変わりということ
なのではなく、
約束された領域へと
到達することが
可能になる、ということなのでしょう、
生命体としてイシキを持ち、
その存在のあり様(よう)といいうものを
自らが体現をすることにより、
この現実世界において、
何らかの変化や変容というものを
もたらすことが出来るということに、
もう、既に気が付いている方達が
少しずつ増えて来ているはずです
旅の、仲間たち、
あなた方に託された(託されている)ものが
何なのかを、既に、
気が付かれているはずです、
努力を惜しまずに、
苦労を重ね、その結果、得られるものが何なのかを
気付かれた方に、
もう、生まれ変わる必要さえ無いことが
分かるはずです、
旅の、仲間たち、
身体を持って、人間として存在している
意味について知るものは
幸いであり、あなた方は、
あなた方のその努力の結果を
実りとして、受け取ることに
なるから、なのです
旅の、仲間たち、
生き抜くことの勇気を
どのような試練に遭ったとしても
捨ててはならない、ということです、
前へ進もうとすると
それと同じ位の ちからが、
押し帰(返)されるということです、
楽しくうれしく心地よく快適に
生きていたいと願い続ける人達を
誹謗し、中傷しては、なりません。
なぜなら、それはその人が選んだ
選択でしかないからなのです
どの道を選ぶのも、
ご当人のかたの選択でしか
ないから、なのです、
旅の、仲間たち、
かぎりある時間という 空間のなかで
どのような努力を、惜しみなく、
いとわずに、やり遂げることが
出来ましたか、
それはつまり、どのような未来のあり方を
後から来られる方達のために
提示する事が、
できましたか、という事なのです、
旅の、仲間達、
あなた方に残された時間は
限りなく、少ない、
焦る必要は ありませんが
行動に移す時が刻々と近付きつつあることに
気が付くべき時が、来ているようです、
どのような目的のために、
その人生の時間を費やしましたか、
という事が、身体の役割を終えたあとに、
問われることになるのでしょう、
 旅の、仲間達、
どのような未来をつくり出してゆくことが、
このちを明るくきれいにして
正しき目的のために地球を返す
ことになるのかを、
考えて、実際に行動に移すということ
なのです
見えても見えず
聞いていても聞こえていないもの達に
時間と労力を費やす必要は ありません、
もう、そのような事に浪費する
時間は、残されてはいないからなのです、
旅の、仲間たち、
ねじ曲がることのない
正しき信念と浄化力、行動力の
準備は、もう出来ていますか、
生きる事の意味について
問われた時に、
濁りのない、その眼(まなこ)で、
真っすぐに前を見て、
きちんと答えることが、できますか、
勇気と正義は、セットです、
ですが、そこに愛という根本的なものが
存在をしていないと、
自らを正当化した殺し合いに
つながることが、あるからです、
(宗教は そのような歴史をつくり出してきた)
“本が一冊、残ればよい”と、伝えてきた事の
意味について、
その知識が存在すれば、
そこから始めることが出来るものが
必ず、あらわれることになる
ということが
こたえになる、ということだからです、
惜しまずに自らを研磨し続ける
ということは、刃(やいば)の先端を
相手に向けるということでは、ないのです、
正しい事と、そうではない事の
判別が出来るような、
明るく清浄な 眼を持ちなさい、
それは 正しい意識を
持ち続ける、ということなのです
           (〜am9:43)



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通信-19年3月23日 
Monday, March 25, 2019, 16:11
(2019.3.23 pm0:30ごろ〜受) 

「闇のことばを使うもの」

人間という生き物は
意識的であれ、無意識的であれ、
口から発する言葉によって、
周囲に影響を与え続ける生き物であり、
その、もたらす結果や効果というものを知るものほど、
利己的な利害関係の優位な立場に
自らを位置づけるために
意図的に言葉を吐き続ける
生き物である、ということ。

現在のこの世においては、それらの、
人間が口から発し続けることばによって、
意識することもなく、無意識なままに、
自覚をすることもなく容易にコントロールを
されているということに気が付くことの
出来るにんげんは、少ない、ということであり、
不特定多数の人間は、そのようにして
他人の口から発されることばによって
その意識領域を、明け渡してしまっている、
ということである。

「闇のことば」を発する人間ほど、
その責任の重さに気が付くこともなく、
口から撒き散らすことばによって
周囲の人間を汚染し続けるということであり、
その責任と罪を、死後背負わされることに
なるであろう、という事である。
ことばが人間に与える影響力と、
それを利用し何かを得ようとする人間の
罪の重さというものを、考えない
(考えようとすることすらしない)人間は、
自らのつくり出した
その罪罰を受け取ることになるのであろう。

周囲に毒を撒き散らかし続ける人間と、
一見したところ、耳ざわりのよい、
他人のためという主旨のその背後に隠された意図が、
邪悪な目的に満ちたものによる操作的なことばを、
意識的に使い続ける人間の奥底にひそむ、
善人のふりをした邪悪なものの使い続ける何ものか。
それらの正体を見破ることの出来ないものは
永遠にだまされ続け、奪われ続けるもの
(=羊)の運命を辿ることになるのであろう。

同じ知識を学ぶものであれ、このようにして
分かれゆくという事であり、
自らが何をしているのかが分からないものの罪は
問うことが出来ないという時代は、
既に終わりを迎えた事が、既にこのちの人間には
(ある領域において)通告済みのことであり、
“知りませんでした”という言い訳は
既に通用することはない。

気が付こうが付かなかろうが、
それらのルールは既に適用済みのものであり、
既に新しいルールは
このちに置かれているということ。
人の失態を笑い、馬鹿にしている暇があるのなら、
自らのそのうちに巣食うなにものかを、
一刻も早く、始末をすることである。
同じ穴のムジナ、である人間ほど、
他人の失敗や失態を笑い、
自らのうちに巣喰う邪悪ななにものかに
居場所を与え続けているということである。

早く気が付かないと、時間は無いという
その事実、現実から、目をそむけるために、
あなた方、人間に、何が無償で用意がなされているか
ご存知では無い方々が、何ものによって、
その意識を操作されているのかを
考えてご覧なさい、ということ。
人間の頭を、無能なものにするために、
どのような娯楽が用意されているのかを
考えればよいだけの話です。
人生の限りのある時間を、何を目的としたものに
使い続けてきたのかを思い返してみれば、
利己的な、その何かのために浪費した
決定的な事実のようなものが、
意識上に浮上してきてはいないのか、どうか。

たにんのために動いたという主張を
し続けるものほど、他者の思いのエネルギーを
自らのもとに集めることに労力を使い、
自らが、ピラミッド型の頂点に立ち、その他の
人間を支配下に置こうとした罪について
意識を向けることすらしない、という事である。
エネルギーを使って、このようにして他者を
コントロールしようとする人間は、自らのおこないについて、
自問自答をすることすらしない、という事であり、
そういったタイプのエネルギーを
行使する人間に、多くの考えない人間は、
コントロールをされているということ。

その、エネルギー的な支配被支配関係の
関与しない、外側から、
それらのしくみを客観的に、
かつ俯瞰的な立場で観察することの出来ない人間は、
自らの羊としての立場を知ることもなく、
考えることすら放棄して、
この世を去ってゆくことになるのでしょう。
同じ知識を知るものが、このようにして
(既に)わかれる(わけられた)ということであり、
そのようにして、周囲を汚染し続けるにんげんは、
自らのおこないの結果を、
受け取ることになる、ということなのです。
ご理解をして、頂けましたでしょうか。
            (〜pm1:30)



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通信-18年8月29日 
Wednesday, August 29, 2018, 15:49
(2018.8.29 am8:15受) 

自分が可哀そう、自分が不幸だ、
と言って泣く人は、
単なるエゴイストであって、自分のことしか
見えていません。世の中には、もっと
苛酷な家庭環境、生活環境で
生きなければならない人達が
大勢存在しています。
それらの状況を、周囲で、この世で起きている事を、
俯瞰して見ることが出来ない方達、というのは、
自分のことにしか、興味が
無いかた達なのです。
そのかた達を、“エゴイスト”という名称で
呼ばれることのある人達なのですが、
いかんせん、自分の人生というものにしか
興味を向けることが出来ないため、
他者や周囲で実際に起きている出来事について、
関心や、興味というものを
持つことが出来ない方達(方々)のようなのです、
つまり、
自分の不幸が、何故なのか、
という原因と、犯人探しをして、
自らの闇の小宇宙という場に
閉ざされたまま、の方たちなのです。
残念ながら、そのような方達にとっては
自分の人生というものが、
一番大事なことのようなので、
世の中を変えてゆくために、
自らの意志で、はたらく、という動機のようなものが、
存在していません
何故なら、自分のことにしか
興味を持つことが、出来ない
方達だからです。
人様(ひとさま)のために、
世の中の何かのために、
身体のあるうちに、意志を持って
行動することが出来ないかた達は、
自らの内側の事にしか、
興味がない、方達だからです。
そこに、「大義」という日本語は
存在をしていません。なぜならば
そのような概念を、自らの存在基盤の中に、
揺るぎないものとして、
常設をしておくことが出来ない
方達だからです。
自分さえ、快適で、安心して、生きていればいい、
という主張をするものが、
不動のものとして、そこに、居座って
いるからなのです。
多くの日本人は、そうやって、
自分と、自分の家族だけが、
機嫌よく、不幸にもならずに、
生きて死ねたらよいと、信じて疑うこともなく、
この戦後73年間を生きて、それを続けることに
邁進(まいしん)してきました。
ですが、その偽りの、ハリボテのような、
見かけだけの幸福は、
終わることに、なるのでしょう。
この、世の中で現実に起きている
歪(ゆが)みや、歪(ひず)みのような現象の
そもそもの、きっかけとなった原因
というものが何なのかを、知らないと、
それを解決するために、一体何が必要なのかを、
考える事すら、出来ないということに、
そろそろ、気が付いては
もらえないでしょうか、
歪(ひず)みや歪(ゆが)みの原因となっているものを、
正しく補正してゆくために、
どのようなものが必要とされているのかを
考える、という事なのです。
自分のことにしか興味のない方は、
自分のことにしか、興味が、無いのです。
世の中のしくみを改善してゆく為に
どのようなシステムが必要なのかを、
考え、実際に行動に移してゆく、
という事が、求められている、という事なのです。
全体像を、俯瞰して見た時に、
何が、どのような姿が、見えてくるのでしょうか
改善すべき点が何なのか、あらたに
どのようなしくみを、つくらなくてはならないのか、
それらの様相のようなものが
見えてくるはずです。
来るものは、拒みません。
去るものも、追いません。
何のお勉強をしなければ、
次のステージへ足を進める事が出来ないのかを
冷静に、客観的に捉(とら)えてみれば、
自ずと、こたえは、見えてくるはずです。


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通信-18年8月2日 
Tuesday, August 7, 2018, 15:35
(2018.8.2 pm10:18受) 

人間が、何に対してペイメントをするのか、というと、
自分の人生に関しての不安を、払拭し、緩和したいが、ために、
おカネを使う、ということである。
良くも悪くも人間というものは、
自らの人生に関する、負債というものに対する
支払義務が存在しているという事に、
目を向けようとすら、していない。
我が物顔で闊歩してきた人生の、
その、終着駅に近づいた時に、
ようやく、はじめて、それまでの人生の
総決算というものを、眼前に、つき付けられるという事態に、
向き合わなければならないということである。
様々な道のりを通して、
“あなたは、一体どれだけの学びを経て、
それを乗り越えて来たものなのか、”
という事実が、徹底的に問われる、ということなのです。
見たくもない事を回避させるために、
見て、見ぬふりをし続けてきたもの、
うしろめたい事実を、無かったことのようにして、
見て、見ぬふりをして来たもの、
あなた方の、こころの内(うち)や、
口から発した、その物事は、嘘いつわりが無く、
真実の事のみが、現在(いま)も、記録が、なされ続けている。
そう、それはまるで、
映像記録を、映し(写し)撮られるかのように、
克明に記録がなされ続けている、という事なのです。
周囲の人様(ひとさま)に、
称賛されるような生き方、と、表向きに
判断されていると思う、その裏側に、
どのような、こそくさと、陰謀が、押し隠されてきたのかを、
知らないとでも、思っているのですか、
“自分は悪くはない”と、主張をする その顔の裏に
どのような本性が、隠されているのでしょうか。
滅んでゆくもの達の話に、耳を傾けている時間は、
もう、ありません。なぜなら、
次の時代のための用意を、今すぐにでも
はじめなければならないからです。
“ああでもない、こうでもない、”という井戸端会議だけをして、
終るような、無駄な時間は、
もう、これ以上、残されてはいません。
次の時代のために、どのようなアクションを
起こすのかが、1人1人の人間に対して、
問われている、という事なのです。
時代は既に、もう終わり、次の行動を起こすための
変革が要求されています。
それらの事象に気付くことが出来ても出来なくても、
一人一人の人間に対しての
現実面における行動というものが、既に
求められている、ということなのです。
決定的に問われるのは、意志であり、
それに付随した、行動力、というものです。
机上の空間上の世界で、生きていたい人達に、
未来は、ありません。“ああでもない、こうでもない”
という、もっともらしい意義主張をして、終わるからです。
それすなわち、『何の行動も、起こしませんでしたね。』 という結論を、
お伝えするしか、ないから(ないためだから)です。
残念ながら、それで、多くの人達は、去ってゆかれることになるのでしょう。
何故なら、“あなたは、何をするために、生まれて来たのですか”という
提議に対するこたえを、
出すことが出来なかったかたとしか、
お伝えのしようがないためだからです。
“ああでもない、こうでもない、”と 言って、
議論をし、おしゃべりをして時間を潰している暇があるのなら、
一刻も早く、行動に移しなさい、という事だからです。
「自分が、何をするために、生まれて来たのか、」
の、こたえは、ご自身の中にしか、存在をしていません。
どこかの何かの、お導きというものを
待ち続けている人間に、人生の残りの時間は
どんどん、少なくなってゆくのでしょう。
自らの中にある、ある存在の鍵を開けることが
出来るのか、否か、は、ご当人の自覚次第なのです。
あなた方が、その能力を
果すことが出来ずに閉じられてしまう、その前に、
実践をして頂きたい、という事があります。
それは、“自らの人生が、ここで閉じることになったとしても、
ひとかけらほどの後悔が、無いのか?”という事です。
“あれをしておけばよかった”という事は、
人間としての身体が無くなった後では実行することが出来ないためだからです。
ひとりひとりの人間の、肉体としての身体を持つ
残存時間は、たかだか、数十年です。
ひとりひとりの能力というものが、試される、という時期に、
既に、もう入っている、ということなのです。
それらのことを、よく、お考えいただきたいと思います。



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