Monday, June 19, 2017, 18:20
(2017. 6.17 am8:40〜受)
お金に対して執着をするものは、
その自らの欲にとらわれ、
自らで、自らを、滅ぼすことになるのであろう
食べ物に対する、その際限のない欲望を
満たそうとする者たちは、
その、自らの快楽のための欲にとらわれ、
自らで、自らを、滅ぼすことに
なるのであろう
自分以外の人間を、自らの支配下に置いて、
自らの思いのままに、操ろうとするものたちは、
自ら自身が 何ものかの手先として
せっせとはたらいているということに
死ぬまで 気付くことはない
抑圧し、自分の思い通りに動かすために、
支配し圧力を加えるもの
声の大きな 俺様気取りの支配者達に
黙って声を上げられずに、言いなりになるしかないと、
始めから諦めているものに、
現状打破のための
解決策のようなものが、齎されることは
無いのであろう
他人よりも、お金を持ち、
他人よりも、美味しいものを食べ、
他人を支配し抑圧して、
コントロールをし続けていたいもの
自らの強欲、貪欲、支配欲が、
一体どこから 来ているのかを
考えたことすら無いものが
一体どのようにして
解決策を導き出すことなどが
出来るであろうか
欲のために 人生を生き
何ものかの手先として
せっせとはたらき続けたものの、末路
というもの
自分は悪くはないという 大前提があって
その、悪くはない自分の保身を主張するために、
どこかの、誰かの、何かの、を理由として、
言い訳を死ぬまで し続けていたいものたち
足るを知れ
恥を知れ と、
当たり前のように心得ていたはずの
このクニの、かつて存在をしていたはずの
美徳 というもの
支配をして、搾取する
自分を守るため、という主張をしながら
自らのこころの平穏のためだけに
私腹を増やしていたいもの
死んだら終わり、だと信じて疑わないから
現世利益や 自らの欲望を満たすためだけに
生存をし続けていたいと
願うものたち
かつてこのクニに存在をしていたはずの
日本人の気質というものが、
いつ、どのような理由によって、
踏みにじられて来たのかを、
考えたことすらない者たちに、
一体、どのような解決策が、齎されるとでも、思うのか、
「調べない」「考えない」
「検証をして、解決方法を模索することすらしない」
自らの欲のことだけしか考えられない人間に、
このクニの人々は汚染され、同調をさせられた、
そういったルール付けの中から、
自らの意志で出ることをしないまま、
“あの時、誰が、このようなことを、したから、言ったから”
という主張を死ぬまで続けて、
人生を、自らの一生を終えて、閉じてゆくものたち、
「考えない」という事が、もたらす結果、というもの、
思いのエネルギーだけを 周囲に向かって排出し
「自分は何も悪くはない」という言い訳を
死ぬまで言い続けていたいもの達。
自らのつくり出した 蟻(アリ)地獄に、
自らのおこないの結果として、
もがき苦しみながら、落ちてゆく、ということ
“あの人間のせいで、自らの損益が、もたらされた”
という恨みつらみが、
暗黒のエネルギーを紡ぎ出し、
自分も他人も 夜叉道へ堕ちてゆくということに
気が付きもしない、ということ
それらの仕組みや構造を
外から客観的に俯瞰して見ることが出来ない限り、
自分が落ちた井戸の底で、自分の不幸をもたらしたと主張する
他人を呪いながら、
異議申し立ての恨みつらみのエネルギーを放出しながら
存在をし続けることに なるのでしょう
自分が何に執着をし、
何を欲しいと思い続けているのか、
富(おカネ)ですか、名声ですか、
自己顕示欲ですか、
それらの欲は、一体、何ものを満足させたいもの
なのですか
それらは、いわゆる、自分を満足させたい
「欲望」というものでは ないのか
満たしたい「欲」は、
一体、誰のためのものなのか
それが、「エゴイスト」と呼ばれるものの
正体です
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Monday, June 5, 2017, 12:17
(2017. 6.4 pm1:37〜受)
「歯周病」や、「メタボ」が、ここまで増えているのは、
現在の社会システムが(本来こうではないはずだよね)
という魂の叫びと、それでも無理をしてでも、
そこに適応しなくてはならないと、思わされているような、
何らかの意識操作に対するゆがみが、
高ストレスと、高緊張感を、
その意識内に生み出し、それを緩和するために
精神安定剤的な役割をするものとして、
過剰なまでの食べ物を摂取する、という手段を
選択する、という、現代の仕組み、というもの、
工場で大量に生産され続ける、工場食品というものが、
それらの安定供給を目的として、
保存性を重視させるために、添加をされる
薬剤の多種多様な使われ方が、
これらの現在問題となっている成人病
というものを生み出していることに
警鐘を鳴らさないのは、
それらを告白(告発)することにより、
損益を生む、多国籍企業というものの存在に、
気が付かなくてはならない。
食品の腐敗や劣化を防ぐために、大量に添加をされる物質は、
化学的に合成をされた薬剤であり、
それらが人体にどのような影響を及ぼすのか、ということに対して、
何の疑問も抱かないように、
意識を操作されている、仕組みについて、
「考えないように」させるためには、
「いいイメージを、その意識に植え付ける(埋め込む)」ことであり、
それが広告業界における多大な収入になることであり、
その根本にあるものが何なのかを考えなくてはならない。
本質的に問題のある商品を、
いかにして、良いイメージを消費者に与えて、
購買欲を、かき立てるかということを目的につくられている、
広告、媒体、というもの、
騙すもの、意識を操作されるもの、
何らかの疑問を抱かずに、宣伝されているものの
問題点にすら気付きもせずに、声高々に、
いかに良きものであるかのように宣伝を流布させるもの、
本来の、地球の自然の、循環システムと、
人間の精神の発展性というものに相反した、
人類の劣化計画のための、
ある種の法則(ルール)というものの存在に、
気が付いたものから、そのルール外における
次世代のための正しき人間のあるべき法則
というものに気が付くことになる。
それらの主役となるもの達は、これから先の時代を、
生きて、創り上げてゆかなくてはならない、
若者の世代であり、(※おそらく、十代、二十代)
それらの方達が、この先、歩き易くしてゆくために
我々の世代は、道を整えておかなくては
ならない、ということ。自分が経験した苦しみを、
後から来る者たちにも、押し付けるつもりなのか、
ということが、問われているということであり、
これから先の世のために、はたらく方達のために、
道を整えておく、という事の意味を、
深くお考え頂きたいと思います。 (pm2終了)
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Wednesday, April 12, 2017, 12:14
(2017.4.12 am8:30受)
“あの人が、どうの、この人が、どうの、” と、
周囲の人間に対しての、意識の向け方を
している限り、それは横につながることであって、
上につながるものではない。
横のネットワークに意識を向け続けている限りは
その階層(エネルギー的領域)から、出ることは出来ない。
“自分が蓋をされている”、と感じているうちは、
自身の内部の問題点というものに、
まだ、気が付いていない、ということなのです。
“あの人のせいで、自分がこうなった。”という主張を
される方は、数多く、いらっしゃるようですが、
そういった考え方をされている限りは、
人様(ひとさま)のために、自分が何かのはたらきをするもの、
という、お導きのようなものが、届けられることは
ありません。
この道を来る方達に共通して いえることなのですが、
人と人との関係性は、エネルギー的な容量により、
どちらのほうに、闇的エネルギーが
流れ込むのかが、わかれています。
自らのほうに、それらの闇的エネルギーが流れ込んで来た時に、
どのように対処をされるのかが、
問われる、ということなのです。つまり、
ご自身が、そのような試練に、あわれた際に、
人として、どのような対応をなさったのか、
ということが、問われる、ということなのです。
ほんとうに、レベルの高いたましい(みたま)の持ち主は、
誰かれを責めることもせず、
どうやったら解決出来るのか、ということを、
まず、一番最初に考えるものです。
“あの人間のせいで、自分がこうなった。”という、
ご自分なりの主張をされている限りは、
黙って人様(ひとさま)のために、自身がはたらき、
辛苦をいとわずに努力をする、という事などは
出来ないのでしょう。
この道を来るもの全ての方達に共通して言えることは、
どのように、起きた問題に対して対応し、
どのように、苦労をして、努力をしたのか、
ということが、必ず、問われますよ。という事だけなのです。
つまり、試練に遭った際に、どのような対応と、
どのような、解決策に対しての努力をなさったのか、
ということが、決定的に問われる、ということなのです。
自らの不調や、不利益が、
“あの人間のせいで”、と思った瞬間に、
上へとつながる回路は、閉じられる
ということ なのです。
ほんとうに、正しい人間、というものは、
自分に、どれだけの負荷がかけられたとしても、
愚痴や文句というものを、周囲に向かって
吐き出すこともせず、
黙って自分の意識のなかで、解決策というものを
シミュレーションし、糸口を導き出すために、
あれこれ作戦を練るものです。
“あいつのせいで、こうなった”、という主張をし続けていたいものは、
被害者と加害者の関係性を構築し、
自らを被害者の立場に置いて、加害者を誹謗中傷を
し続けていたいというものでしか、ありません。
愚痴や不平や不満といった、異議申し立てのことばを、
何ものかに向かって吐き出し続けていたい人間、
というものは、敵、味方、上、下といった
階層や、関係性といったものを、
自らの存在の中で構築し、
自らにとって不利益をもたらすと判断した人間を、
潰そうとする意識を、その存在内に、持つものです。
そこには、“どのようにしたら、解決、改善が成されるのか”、
といった、健全で、建設的な意識というものが、
その意識領域内には、存在をしていません。
自らにとっての不愉快な人間を潰して、愉快爽快な
気分になるもの、とは、一体、何ものなのですか。
それらのものに居場所を与え続けて、棲み憑かせているのは
自分自身であるということに気が付かない限り、
この世や、周囲の人間を恨みながら、人生の残りの時間を
過ごすことに なるのでしょう
その、全体構造を、ご自身が理解して
自らの意志で、その階層から出ることをしない限り、
意識は、その場(エネルギー階層)に、とらわれ続け、
堂々巡りをしながら、残りの人生の時間を
過ごすことに なるのでしょう
本日は、ここまでです。
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Tuesday, November 29, 2016, 12:48
(2016.11.29 am10:受)
自らが審判の器である(になる)
ということを、知らぬものたちは、
自らの、その外部に
救世主というものを求め続け、
その何ものかからの恩恵を受けるために
自らの存在を差し出したものたち
それすなわち、羊の倫理
というもの
自らの思考による、判断、決定、行動
というものが、その存在のなかに
欠落をしている
指導者、といわれた、
その権威を自らのものであると
信じて疑わないものたちに
つき従い、つき進み、
その、責任のありようを
自らの頭で(判断で)放棄した
ものたち、
羊の論理(倫理?)
2000年もの長きに渡る
その呪縛の縄を解き、
自らの足で立つものたちには
人の子と呼ばれる時代への
参加の権利が 与えられている。
宗教の、時代の、終わり
ということの意味を
理解し、それを自らのうちにある
その、たましいと呼ばれるものに
刻印された何らかの意思(あるいはプログラム)
と呼ばれるものの意図するものが
何たるかを知るものには
新しい時代への参加をする
エントリー、というものが、
その、たまのなかに、
刻印が、成されている。
これらの時代が過ぎ去るまでは
わたしのことばは ちからを持ち
永遠のいのちを 欲するものたちには
その資格というものが
附与されることになるのであろう
あなたがたの よきみたま
と呼ばれるものは
火にくべられ
燃える精錬(精練)の火のなかで
鍛えられることに なるのであろう
本日は、ここまでです
自らの足で立つ ということが、
どれほどの 勇気と
意志と、正義が
ためされているのかを 知れば
自らの外側に
救世主を求め続けるということの
浅はかさに
気が付くことが 出来るのでしょう
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Monday, June 13, 2016, 17:38
(2016. 6.12 am10:05受)
人間という種類の生き物は、
自らの希望するカミさま像というものを
その意識のうちでつくり上げ、
自らのお願い事をきき入れてもらえるように、希望し、
その対象に向かって、祈り続けてきた、もの。
自らが、その意識上でつくり上げた 何ものかに向かって、
お願い事をするという滑稽さに、気が付かないもの達は、
その、自らのつくり出した閉鎖系の、自分の希望する
ワンワールドの中に、閉ざされることになるのであろう。
“自らにとっての、その都合の良い、自分だけのカミさま像”
というものの正体に気が付いた時、一体、何が、起こるのか。
自らが、祈り崇めていた、その対象の何たるかを、
知ることになるのであろう、ということである。
思い通りにならない人生を呪い、恨み、逆恨みをすることで、
うまくゆかない責任を、自分以外の何ものかのせいに
仕立てて、自ら自身の問題点という部分に
目を向けないように仕組まれた、仕組み、とは
一体、何なのでしょうか。
問題の所在を、すり替える、ということが、これから先も、
続けられてゆく限り、本来の正しき出口というものを
見付け出すことは、益々難しいものとなってゆく、
ことでしょう。
自ら自身の暗黒点に目を向け、見つめ続けるという作業を
やり終えない限り、責任の所在を、自分以外の何ものかに
押し付けて、“自分は悪くはない”、という言い訳をしながら、
この世を去ってゆくことになるのでしょう。はじめから、
正しき出口を伝え続けているにもかかわらず、何ものかに
責任を押し付けようとするもの達の共通した言い訳とは、
何だと思われますか、“分からなかった” “知らなかった”、
と言い続けることをやめないもの、とは、
「自分の見たいものしか、見ようとしないもの」でしか、ないからです。
それが、こたえだからです。 (以上。)
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