Thursday, November 27, 2014, 14:33
(2014.11.11 am11:22)
行くのは、勝手。
どこかに出掛けて、
何かをするのも勝手。
ただ、出掛けた先で拾ってきたものは
自らの責任において処理をしなさい。
自らのおこないの結果物を、
他人に、押し付けるな、ということ、
何ものかに操作され、あちこちに行かされて、
使われるもの、として その人生を終えたものが、
かつての宗教者(ご神業者?)と言われた人達。
それらの方々が、何か、人々の生活に役立つことや
ものを、残したのですか?
ということです。
そうやって 正しき本来の人としての人生を
まっとう出来なかったもの達が、
自らのおもいのエネルギーとして、
生きている人達に とり憑き、
意識を操作して
操る、ということ。
それが、使われるもの、ということなのです
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Monday, September 1, 2014, 15:17
(2014.9.1 am10:40)
たにんのために
身を粉(こ)にして はたらけますか
自らの損得無しに
相手のかたのために はたらけますか
ひととして 誠実であれ、ということが
何を指し示しているのか
おわかりですか
スピリチュアル というものに興味を持ち
何らかの能力を得たいと思うかたは
この世に 沢山います
それらの方々が 求めている能力
というものが
何を現しているのか
おわかりでしょうか
世のため 人のために
役立てる、と、言いながら
自己の顕示欲や 支配欲というものを
手に入れるために、
意識的であれ 無意識的であれ
それらの ちから(力)を手に入れたいと
思い、やまない方々は
このちに 大勢 存在をしています
目的が どのような ものであれ
他者を支配し 動かそうとする
ちから とは
操り、操作をする能力を
手に入れようとする 人間にとっては
のどから 手が出るほどに
手に入れたいと 願い続けている
ある種の 超能力の ようなものです
ひとを コントロールし、自らの思いのままに
操ろうとする ちから というものは
ある種のビジネスであれ、宗教的なものであれ、
あるいは、“スピリチュアル”というものが
好きなかた達にとっては
この上なく 魅力的なものに思えて
やまないからです
“欲する” ということが
何らかの人間的な欲望というものに
直接つながり、それが
自らの欲望達成というものを
最終目標として、
それを手に入れるために
心血を 注ぐことになるのです
話を もとに戻します
人として 誠実であれ、ということが
どのようなことであるのかが
理解できる方達にとっては、
自らの今回のその生命のあり方を
自らが 現実的な社会において
体現をすることの 出来る方達なのでしょう
たにんの利益を得るために
みずからが、はたらく、ということ
そうやって、他者のためにはたらく方達が
増えれば、
そうじをした後に、ちりが残されていないように
明るく きれいな場へと
この世は このちは 変貌を 遂げることでしょう
自らの 利の ためではなく
他人が 利益を 得るために、
努力し 努めるかた達 というものが、
ある意志を 自らが 体現をする
という かた達なのです
ひとが喜ぶことを、自らが努力をして
現実社会で 体現をする ということが
正しい経済活動として きちんと
結びついた時に
これまでの このちにおける失敗のもととなった
エネルギー的階層のしくみ、
もしくは システム というものは
無効になります
立て替え 立て直し と
伝えられ続けてきたことの意味は
資本主義的世界の時代の終わりを告げ、
あたらしい 次の時代への扉を
開く ということを 意味します
ひとが、ある、意志のようなものを、
身体を持って存在をしている間に
体現をし、外的世界へと 向けられたその時に
“ある意志を 自らが顕わす”
ということ なのです、
からだを持って 存在をしている
その生存の期間内に
どのようなものの うつしみとして
人間社会で 働き
行動を 起こすのか、
そのことが ひとりひとりの人間に
問われている ということに 気が付けば
自らが ある役割を 担い
それを 現実社会で 体現するために
わざわざ この時代を選んで
生まれてきたもの、という真実に
向き合うことが 出来るはずです
自らの意志で 学び、用意をし、
用意の出来たものから 送り出される、という
手順を ふまえ
現実社会の場で はたらくことの意味に
気が付かれたかたは
時が来たら、送り出されることに
なるのでしょう
自らの たましいの存在の目的と意味をしり、
学び用意をして、
用意の出来たものから 送り出される
ということ、
人間社会での はたらく場と、
自らの立ち位置というものを 自覚し、
それを 現実社会において 自らの行動として
現わすということ
お祈りをし、こうなりますように、と
願うのではなく、
意志を体現して、自らが、現実社会で
はたらく、ということなのです、
ご理解をして いただけましたでしょうか
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Friday, August 8, 2014, 12:11
(2014.8.8 am8:30)
自らのした、おこないが、
自らのところへ、帰って来る、ということ
他人をばかにして、罵り、
見下すような おこないを
周囲に向かって放射をし続けてきた
にんげんは、
それ相応の人生の終わり方を
迎える、ということであり、
自らのおこないの結果を
その人生の最後に 受け取る ということである
周囲の方々のために つくし、
その身をもって はたらいたものは、
自らのした おこないの結果を
最後に 受け取るということ
生き様 イコール 死に方
という 完全なる 理屈(理ことわり)であり
それが 正しき ルールである
ということ
言い訳を し続けていたいもの達は
それ相応の場へ
行くことになる ということ
生きて からだがあるうちに
はたらいたものは
その身をもって 証(あかし)とし
その生を 証明するものと
なるということ
たにんの人生に関与し
操作を したものは
その自らの罪を問われ
それ相応の場へと送られることになる
ということ
相手を改変させようとして
操作をする ということの誤ちに
まだ 気が付きませんか
自らの行き先は
ご当人 自らが選び 選択をするものです
違う 道へと 歩みを進めているものを
呼び止めては ならない
何故なら
その人間が 選んだ 選択でしか
ないから
なのです
自らの意志と選択で 決めて選び取る
というおこないには
当然のことながら
「自己責任」というものが 置かれています
誰かの 何かに どうにか 言われたから、
と 主張を したがるものたちは、
そこには 自分のせいではない
誰それが、こう言ったからだ、
という言い訳を、
いつまでたっても し続けていたい
かた達なのです
相手にしていては いけない
時間や労力を奪われるだけで
無駄なことであることに
はやく 気付いて下さい
自らが 助かりたい かた達は
あたかも、重りのように
まとわり付いて来るようになります
それが、足かせ、手かせになる
ということに
はやく、気付いて下さい
“救世主”ということばが つくり出した
大きな、巨大な虚構に
はやく、気付いて下さい
自ら以外の 何ものかに
助けてもらおうとすることの罪に
はやく、気付いて下さい
時間がないと言い続けていることの
意味に
はやく 気付いて下さい
あなた方 おひとりおひとりの
自らの決断 と 意志 というものが
問われているだけに 過ぎません
何ものかが つくり出した
「救世主」というものが 好きな方達にとっては
その場の層を離れるということを
したくは ないという事実に
気が付いて 下さい
相手にしては ならないということに
気が付いて下さい
全ては 理(ことわり)にすぎない
と お伝えしていることの意味に
気が付いて 下さい
時間は もう 残されては
いないのです
(2014.8.8 am7:30)
自分でつくり上げた罪を
他人に背負わすな。
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何故、その親を選んで
生まれて来たのか、という理由を、
自分の頭で考えよ
(他人に、こたえを求めるな)
---------------------------------
誰かに、何かを、どうにかしてもらおう、
という行動原理を捨てることが
出来ない限り、
何ものかの奴隷であり続ける
ということである。
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Thursday, July 17, 2014, 12:51
(2014.7.17 am6:25)
あなたは、自分が、なりたかったものに
なりなさい。
どこへでも行けるし、何にでも、なれるはず。
ひとつだけ、必要なものは、
あなた自身の意志と行動力だけなのです。
後で、後悔をしないために、
“ああすれば、よかった、これをしておけばよかった”、と、
悔やむことのないように、
一生懸命に、自分自身を生きなさい、
ということなのです。
宗教のくびきを外し、何ものにも、つながれない
という状況が、“くびきを外す”、という
ことなのです。
自分自身の意志と行動力が、自分自身の未来をつくり出し、
あなたの、その行動が、
周囲の方々にも影響を与えうる、ということに気が付けば、
自分は、人とのつながりを持ちながら、
完全に自由である、ということに
気が付くはずなのです。
思い出したくもないような嫌な記憶を、
箱にしまって鍵をかけてしまうのではなく、
ひとつ、ひとつ、ひもを解いて、
自身で確認をする作業、というものが
必要になってきます。
ひとのものを横取りして、
自分のものにするのではなく、
自分が ちいさな子どもになった時の気持ちで、
何になりたかったのか、
どのようなことを したいと思っていたのかを、
思案してみる、ということなのです。
盗み、殺して、奪うのではなく、
「活かす」ということに、気が付いて欲しいと
思います。
やりたかったことを、やる、
という、シンプルな、生きる目的というものが、
見えてきては、いませんか。
“利益を得るため”、
“安定した生活を送るため”
と、いったことが、
あなたの本当の生きる目的なのでしょうか。
もしかしたら、波乱万丈の人生が
待っているかもしれない、
大きな波にもまれ、大変な思いをすることも
あるのかもしれない、
ただ、
その人生を終える時になって、
“ああ、自分は、自分のやりたかったことを、
全うしたなあ”、と、思うことの出来たかたは、
このちに何も残すことなく、後から来られる方々のために、
足跡のみを残して、
去ることの出来る、かたがたなのでしょう、
もう二度と、生まれ変わることもなく、
今回が最後、という人生であるのなら、
何をしておかないと悔やむのか、ということを
基準に考えてみることが、よいのかもしれません。
残りの人生を、どのように生きるのか、どういった
目的のために、何をしたいのか、
ということなのです。
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Monday, June 30, 2014, 23:59
(2014.6.29 pm5:40)
自分が、それ(そのプラン)を選んで、
生まれてきた(様々な現実世界での経験を経てきた)
という自覚がないと、
いつまでたっても 被害者側的意識の層から
抜け出すことは出来ません。
何を学ばなくてはならないから、
その経験を、してきたのか、
人間の何について、現実世界において
学ばされてきたのかを、客観的な視点で
とらえることが出来ない限り、
意識はその層に、とらえられ、堂々巡りをくり返すことになります
自らのつくり出した世界を学ぶ、ということと、
その経験をしておかなければ、
本来の正しき役割として、世のため、人のために、
尽くす、という生き方をすることが、出来なかったのだ、
という認識と結論を、自らのなかで
構築をすることが、求められています。
自分と同じような経験をした方たちが、
あなた方のもとに訪れて来たときに、
その方のお気持ちが、手に取るように理解することが
出来る、というのは、それを実際に経験をしたことのある
人間でしか、ない、ということなのです
自らが、生まれてきた理由、というものが、
あるとき、ストンと腑に落ちた、と感じられた時に、
ご自身が、ある目的を持って、わざわざその親を選んで
生まれてきた、という認識を持つことが
出来るのでしょう、
自らの存在の意義というものが分かったとき、
正しく、たましいと身体は結ばれ、つながれる、
ということなのです
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