通信-14年8月8日 
Friday, August 8, 2014, 12:11
(2014.8.8 am8:30)

自らのした、おこないが、
自らのところへ、帰って来る、ということ

他人をばかにして、罵り、
見下すような おこないを
周囲に向かって放射をし続けてきた
にんげんは、
それ相応の人生の終わり方を
迎える、ということであり、
自らのおこないの結果を
その人生の最後に 受け取る ということである
周囲の方々のために つくし、
その身をもって はたらいたものは、
自らのした おこないの結果を
最後に 受け取るということ
生き様 イコール 死に方
という 完全なる 理屈(理ことわり)であり
それが 正しき ルールである
ということ
言い訳を し続けていたいもの達は
それ相応の場へ
行くことになる ということ
生きて からだがあるうちに
はたらいたものは
その身をもって 証(あかし)とし
その生を 証明するものと
なるということ
たにんの人生に関与し
操作を したものは
その自らの罪を問われ
それ相応の場へと送られることになる
ということ
相手を改変させようとして
操作をする ということの誤ちに
まだ 気が付きませんか
自らの行き先は
ご当人 自らが選び 選択をするものです
違う 道へと 歩みを進めているものを
呼び止めては ならない
何故なら
その人間が 選んだ 選択でしか
ないから
なのです
自らの意志と選択で 決めて選び取る
というおこないには
当然のことながら
「自己責任」というものが 置かれています
誰かの 何かに どうにか 言われたから、
と 主張を したがるものたちは、
そこには 自分のせいではない
誰それが、こう言ったからだ、
という言い訳を、
いつまでたっても し続けていたい
かた達なのです
相手にしていては いけない
時間や労力を奪われるだけで
無駄なことであることに
はやく 気付いて下さい
自らが 助かりたい かた達は
あたかも、重りのように
まとわり付いて来るようになります
それが、足かせ、手かせになる
ということに
はやく、気付いて下さい
“救世主”ということばが つくり出した
大きな、巨大な虚構に
はやく、気付いて下さい
自ら以外の 何ものかに
助けてもらおうとすることの罪に
はやく、気付いて下さい
時間がないと言い続けていることの
意味に
はやく 気付いて下さい
あなた方 おひとりおひとりの
自らの決断 と 意志 というものが
問われているだけに 過ぎません
何ものかが つくり出した
「救世主」というものが 好きな方達にとっては
その場の層を離れるということを
したくは ないという事実に
気が付いて 下さい
相手にしては ならないということに
気が付いて下さい
全ては 理(ことわり)にすぎない
と お伝えしていることの意味に
気が付いて 下さい
時間は もう 残されては
いないのです


(2014.8.8 am7:30)

自分でつくり上げた罪を
他人に背負わすな。
---------------------------------
何故、その親を選んで
生まれて来たのか、という理由を、
自分の頭で考えよ
(他人に、こたえを求めるな)
---------------------------------
誰かに、何かを、どうにかしてもらおう、
という行動原理を捨てることが
出来ない限り、
何ものかの奴隷であり続ける
ということである。


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通信-14年7月17日 
Thursday, July 17, 2014, 12:51
(2014.7.17 am6:25)

あなたは、自分が、なりたかったものに
なりなさい。
どこへでも行けるし、何にでも、なれるはず。
ひとつだけ、必要なものは、
あなた自身の意志と行動力だけなのです。
後で、後悔をしないために、
“ああすれば、よかった、これをしておけばよかった”、と、
悔やむことのないように、
一生懸命に、自分自身を生きなさい、
ということなのです。
宗教のくびきを外し、何ものにも、つながれない
という状況が、“くびきを外す”、という
ことなのです。
自分自身の意志と行動力が、自分自身の未来をつくり出し、
あなたの、その行動が、
周囲の方々にも影響を与えうる、ということに気が付けば、
自分は、人とのつながりを持ちながら、
完全に自由である、ということに
気が付くはずなのです。
思い出したくもないような嫌な記憶を、
箱にしまって鍵をかけてしまうのではなく、
ひとつ、ひとつ、ひもを解いて、
自身で確認をする作業、というものが
必要になってきます。
ひとのものを横取りして、
自分のものにするのではなく、
自分が ちいさな子どもになった時の気持ちで、
何になりたかったのか、
どのようなことを したいと思っていたのかを、
思案してみる、ということなのです。
盗み、殺して、奪うのではなく、
「活かす」ということに、気が付いて欲しいと
思います。
やりたかったことを、やる、
という、シンプルな、生きる目的というものが、
見えてきては、いませんか。
“利益を得るため”、
“安定した生活を送るため”
と、いったことが、
あなたの本当の生きる目的なのでしょうか。
もしかしたら、波乱万丈の人生が
待っているかもしれない、
大きな波にもまれ、大変な思いをすることも
あるのかもしれない、
ただ、
その人生を終える時になって、
“ああ、自分は、自分のやりたかったことを、
全うしたなあ”、と、思うことの出来たかたは、
このちに何も残すことなく、後から来られる方々のために、
足跡のみを残して、
去ることの出来る、かたがたなのでしょう、
もう二度と、生まれ変わることもなく、
今回が最後、という人生であるのなら、
何をしておかないと悔やむのか、ということを
基準に考えてみることが、よいのかもしれません。
残りの人生を、どのように生きるのか、どういった
目的のために、何をしたいのか、
ということなのです。

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通信-14年6月29日 
Monday, June 30, 2014, 23:59
(2014.6.29 pm5:40)

自分が、それ(そのプラン)を選んで、
生まれてきた(様々な現実世界での経験を経てきた)
という自覚がないと、
いつまでたっても 被害者側的意識の層から
抜け出すことは出来ません。
何を学ばなくてはならないから、
その経験を、してきたのか、
人間の何について、現実世界において
学ばされてきたのかを、客観的な視点で
とらえることが出来ない限り、
意識はその層に、とらえられ、堂々巡りをくり返すことになります
自らのつくり出した世界を学ぶ、ということと、
その経験をしておかなければ、
本来の正しき役割として、世のため、人のために、
尽くす、という生き方をすることが、出来なかったのだ、
という認識と結論を、自らのなかで
構築をすることが、求められています。
自分と同じような経験をした方たちが、
あなた方のもとに訪れて来たときに、
その方のお気持ちが、手に取るように理解することが
出来る、というのは、それを実際に経験をしたことのある
人間でしか、ない、ということなのです
自らが、生まれてきた理由、というものが、
あるとき、ストンと腑に落ちた、と感じられた時に、
ご自身が、ある目的を持って、わざわざその親を選んで
生まれてきた、という認識を持つことが
出来るのでしょう、
自らの存在の意義というものが分かったとき、
正しく、たましいと身体は結ばれ、つながれる、
ということなのです



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通信-14年5月22日 
Thursday, May 29, 2014, 17:35
(2014.5.22 am10:00)

どこかの何か(あるいは何ものか)が
何とかしてくださる、と
思い続けていたい方ほど、
簡単に操作され、操られます。
自らの考え、判断、行動といったものを、
正しく 誠実な ものの基本ベースとして
とらえることが 出来る方は、自ら以外のものに
操作されることがない。
前者のかたは、自らがそのたましいの
もとたるものの座を放棄して、はじめから
明け渡しているからである。


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通信-14年5月26日 
Thursday, May 29, 2014, 17:34
(2014.5.26 pm0:35)

自らが審判の器である、という自覚を
持つことが出来ない限り、
自らが被害者である、という主張を
その生が尽きるその時まで
し続けようとする立場のものとして
生き続けることを選択する人生を歩むものとして、
その生を終えることになることを、
ほとんどの人間は
自覚すらすることもなく
生きている

身体を持つものとして
どのような 生き様をもって、
その生の命を燃焼したものであるのかが、
死後問われるということに
ほとんどの人間は気が付くこともなく、
人生を快適に楽しく過ごすという
目的達成のために
日々の生活目標といったものを
掲げている
目標のすり替えというものが
その頭の中で、意識の中で、
起きているということに
当のご本人は気が付くことさえもなく、
本来の目指すべき正しき目的地とは
異なった、異質な目的地へと
足を進めていることに
自分だけが気が付かないという状況下のなか、
その生を、まっとうすることになる
審判の器、と、伝え続けていることの意味を
理解することが出来るものは、
責任を担うことの苦しみと
その人生をまっとうすることの出来るだけの
知力と努力を自らが用意をしてきたもの達である
それらのルールを踏むこともなく
持つものを妬み、それらを奪おうとする
おもいのエネルギーを燃やし続けるものは
自らの責任というものについて
考えることもなく、人から奪い、あるいは
もらい受けることだけを その人生の目標として
生き続けるものとなる、ということである
原初の神のエネルギーを妬み、呪い、
殺して、埋め隠したもの、というテーマが、
ひとりひとりの人間に対して 問われている
ということに、まだ、気が付きませんか、
その責任が問われ、自らの犯してきた罪の
負債についての支払いが、問われている、
ということに、まだ、気が付きませんか、

役割を終えて去ることになった、その時に、
“お疲れ様でした。よく頑張りましたね、”
と、祝福をされながら、その生を終えることの
出来たかたは、このちに何ものも残すことなく、
地上に負荷をかけることもなく、
去ることの できる方、なのでしょう、
“損だ、得だ、”という主張や、愚痴や文句を
その存在のなかに、おもいというエネルギーとして
ため込んだまま、この世を去ることになられた方は、
それ相応のエネルギーをこの地に残したまま、
肉体としての生を終えられるかた達なのでしょう。
他人のちりについて 指摘をしている暇があるのなら、
あなたの中の、ちりを、先に自らで
掃除をしなさい、ということである

指示や指図をされることもなく、
自らの意志と判断で、学び、選択をし、
先に進むことが出来るという、しくみについて、
きちんと考え 行動が伴なうかた達は、
学び、研磨をする、ということの意味を、
知るかた達、なのでしょう
「審判の器」というテーマについて、
正しき認識を持つことの出来るかた達は、
自らの責任と、成すべき自らの仕事について、
知り、そして体現のできるかた達なのでしょう
あらかじめ置かれていた、進化の法則というものに則り、
試練や困難を乗り越えながら、
先に、進みますか、あるいは辞退をされますか、
ということが、ご自身に問われているに過ぎません
それが、最終知識という書が伝えていることの
意図する内容であり、それらは既に開示が
成されているものである


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