通信-14年2月4日 
Friday, February 14, 2014, 14:13
(2014.2.4 am10:20) 

“欲望のハードル”、と、“精神的な飢餓状態”
というものについて、
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人間が物欲(=お金に対する強欲)、色欲、
貪食(=アルコール依存も含む)について、
その原因となるものについて深く考察するということを
しない限り、その解決への道筋は遠いものとなる。
欲望のハードル、というものが低いものについては、
日常で起こる、小さな幸せというものに対する
感謝と愛に満ち溢れ、精神的な満足感が
大きく、それ以上の何かを欲することはない。
それとは対極的に、欲望のハードル、というものが、
自分の目線より、高い位置にあると感じているものにとっては、
常にそのハードルを越えることが出来ないという意識を持ち続けており、
自らがつくり出した世界であるにもかかわらず、常に精神的な飢餓状態であり、
その欲望が満たされないことに対する怒りや憤りといった、
人間的な感情面に伴なう、何らかの思いのエネルギーを
その意識領域に持ち続けることになる。
ハードルが低ければ、たやすく乗り越えることが出来、
ハードルが目線の位置より高く設置が(自らで)なされているために、
常に欲求不満という意識状態のまま、人生や生活を送ることになる、ということである。
その時点で、ある種の責任転換が成されていることに当人は気付かない、
あの人間のせいで、自分の人生は不毛である、
周囲の環境の悪さが原因で、いつまでたっても自分は不幸だ、
誰も、何も、自分のために何もしてくれない、という、人生そのものを恨み、
持つものに対する妬みというエネルギーを燃やしながら、
生きてゆくものとなる、ということである。
自らの存在のなかにある、その赤くて黒い、邪悪なエネルギーの芯を、(真実を?)
見つけ出し、認識をして、改善のための努力ということを、しない限り、
そのレベルの意識状態に閉ざされ、囚われ続ける、ということである。
そういった人間ほど、解決策を他人に求め、自らを他人に委ねて依頼をする傾向が強い。
つまり、自分自身の問題を、他者に解決をしてもらおうという責任転換の、考え方である。
それが自らの外部に救世主を求め続ける、という
この2000年間の呪縛の結論ということである。
その考え方そのものを捨て去ることが出来ない限り、
おもいの堂々巡りの層に囚われ続ける、ということである。
欲望が満たされれば満足である、という、その欲望が、
色や、金や、権力である限り、支配や被支配の関係図の構図の中で、
より多くを所有したいという願望をもとに、
生き続けるという選択をするものとして、人生を送るということである。
その基本となる構造は、優劣の関係であり、
他者との比較をして自らの立ち位置というものを決めようという、
ものの考え方をしている限り、ある種の層に囚われたままである、ということである。
同じでありたい、こうありたい、という願望が、欲望へとすり替わり、
その欲望を満たすためには何でもする、といった行動体系を取るまでになる、
ということである。
切れ目のない欲望状態の基になるのは、ある種の精神的な飢餓状態で、
飢餓を解消するために欲望を満たそうとし、
その欲望を手にするためには何をしてでも、どのような手段であっても、
という精神構造が確立されてしまっている、ということである。
自らの外側に解決策と、こたえを探し続けている限り、
おそらくその生涯を終えるまで、満足する回答を得ることは出来ない、
そのことを始めから知っている、ある種のヒーラーや
チャネラーといったものは、顧客をとらえ続けるために
自分に依存させ、崇拝させる、という、
ひとのおもいのエネルギーを集め続けることに、余念がない、
経済であれ、宗教であれ、どちらにしても三角形の頂点を、
形成したピラミッド型の支配と被支配の層の中に
取り込まれていることに気が付かない限り、
引力圏の縮図の層の中からは出ることが不可能である、
ということである。
上下層の構造を構築した何ものかが意図していたものの正体が分からない限り、
搾取し、搾取されるという基本構造の世の中のしくみの改編、改造は、
難しいということである。
そのシステムを構築した何ものかの正体が分かれば、
それが自らの存在の中にも、同じように存在していることに、
ある時、気が付くことになる。
他人の問題点を指摘している暇があるのなら、
自身のなかにある暗黒を見よ、ということである。
見たくもないものは見なくてもよい、ただし、
この世のルールというものが変わったので、全ての生存をする存在においては、
ある時、自らの存在そのものについて提議がなされ、
自らのおこないそのものについて、
自ら自身にその事実を問われることになるのであろう、
審判の仕組というルールの枠組が出来ていることの
事実は既に告知が成されているはずである、
それらは既に、お伝え済みのことである

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通信-14年1月27日 
Wednesday, January 29, 2014, 15:52
(2014.1.27 pm9:30) 

最良の善人は、
その対極にあるものの罪を贖うために
その罪を持つものが
その身の元に齎されるであろう
その罪を贖うものが 現われ
その身を 証しとするときに
それらの 呪われた時代は 終わることに
なるのであろう
あらかじめ 予告されたことを 終わらせるために
あなた方は 仕わされ 齎された
月の 時代が終わるということの
予告とともに
それらの 予め 置かれていた予告を
成就するために その身は置かれ
用意が成(為)されたもの
ひとのつくり(※偽り・偽造/の意)上げてきた
このちの呪縛というものを 終わらせるために
あなた方は その証しをするために
用意が為されてきた ものたち
聞く耳のあるものたちは 聞きなさい
何の為に その予言が このちに置かれ、
用意が為(成)され 準備が 成されてきたのかを。
聞く耳のあるものたちは 聞きなさい
月の 呪縛が、(用意が、)成されて 終わりを告げる
刻(とき)が 来ると いうことを。
あなた方に 託(托)されているものが
何であるのかを 知るものには
その身に委ねられることに なるのでしょう
聞く耳を持つもの そのものたちに委ねられた
このちの 先の世 というものが
終(お)わりを告げ そして
つぎ(次・継)のものたちへと
さし渡された つぎ(継・次)の時代の用意であることを。
あなた方に 聞き、そして問う
その身の 何のために、使うものであるのかを。
あなた方に 問う
約束されていた このちの 御国(みくに)というものに
働くものであるのか 否か であることを。
あなた方に問う
このちの ひとつの時代を終えて
次の あたらしい時代のために 御(み)働くものであるのか否かを。
あなた方に問う
すべてのものが 消し去られ 消え失せたのちに
その存在を いかなるものに どのように問うのかを。
あなた方に問う
その存在の 足跡を どのように残し
それらが 全て何のために 使われることになるのかを。
あなた方に問う
聞く耳のある者はと 伝えられてきた
そのこたえを 自らのうちに 見付け出すことが出来たのかを。
全ての生命体として存在をし得る あなた達、あなた方、
その存在基盤となるものを、
おのずの中で自(おのず)の中で
自覚をしているのか 否か
あなた方に問う
それらの 歴史の清算を するものであるのか否か
あなた方に問う
自らのうちにあるものの その両極にあるものの
存在を 認めるのか 否か
全ての生存をする存在そのものに 告げられた
告知は重く
それを知り 耐えられるものにしか
証しはされない
全体像を知り 担うものが 現われた時
それらの予言(預言?)は 成就する
月の世代が 終わりを 告げるということと
それらの回答が このちに齎されるというもとは
同じことである
ひとりひとりの存在の 意味を 知ることが出来た時、
月の世代は 終わりを 告げるということである
          〜pm10:08 <アマツツキ>


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通信-13年12月12日 
Tuesday, December 24, 2013, 13:18
(2013.12.12 pm10:50) 

あなたが向き合っているものが、
「何なのか」
その実体が分かれば、
解決法を考えることが出来るのでしょう
あなたに対する
課題であると、とらえれば、
何を克服しておかなければ
次へ進むことが 出来ないのかを、
知ることに なるのでしょう
これまでの 人生において、
このような課題とテーマは、
幾度となく、置かれ、
その解決法を考えるよう、
あなたの眼前に、置かれてきたはずです
乗り越えることが出来なくば、
そこに捨て置かれ、
そのまま、朽ち果てることになることは、
何も説明をしなくとも、
これまでの実経験、実体験で、
充分に勉強をさせられてきた、
はず、のことなのでしょう、
“ひとのおもい”というものが
どれほどまでに人間を束縛し、
そのおもいによって人間の判断や
行動といったものが規制される
ことになるのかを、
あなたは、もう、充分な程に
学ばせてもらってきた、はず、
なのです。
これから先の世において、
何をもって基準とし行動することが
求められるのかを、
あなたは、この数年で、
もう充分に学び得た、はず、
なのです。これから先の
この世のことが、あなた方に既に
どのように委ねられているのかも、
もう既に、知らされているはずの
ことだと(?) 認識しています、
その親を、選び生まれてきたことの理由を、
今一度、考えてみて下さい。
その先に 何をつくり出して行かなければ
ならないのか、の こたえも
その延長上に置かれていることに
気付くはずです。
見えても見えず、聞いていても聞こえない
ものの、その先に、為すべきことが何なのかを、
知るべきものには
知らされることになるのでしょう。
それは、そのことを担う用意が出来たものにだけ
知らされることに なるからなのです
用意が出来たものの蓋が、開(あ)く、とは、
そのようなこと、を、指し示しているから、
なのです。

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通信-13年12月5日 
Friday, December 6, 2013, 14:53
(2013.12.5 pm5:30) 

あたまが 出るぞ
あたまが、でるぞ
しっぽと おっぽの先に 巣食った
あたまが、でるぞ
見えかくれ しておろうな もうすでに
あたまの 先が もう すでに 出ておろうがな
ききかいかい (奇奇怪怪?)
ききかいかい
見えても 見えんものの 正体が
これから 今、 あばかれるぞ
何とかしてくれ いうとるものが
その身のなかに 巣食うておるぞ(よ)
いめーじ とれーにんぐ することは
できるのだが
そのために かいしょなし と (甲斐性?)
いわれ続けてきたものが
今、とり押さえられて いるとこじゃ
しっぽから おっぽから そろそろ 出てくるものが
おるぞ、 おるぞ、
ぞろぞろと おるぞ、
ゆうこう かつよう できんものの 正体が
いま あばかれて しもうたな
せっかくの いい きかい だから
とつとつと はなしを するものたちの
言いたいこと やらを
聞いてみるのも よいのじゃろ
あーたま 隠して
しり   隠さず
世のなかのために
ゆうこうかつよう できんものは、
これからは、 ポイ、 なのじゃ
そのへんのことは すでに わかっておろうに
ちいーとも 世のため 人のために
活きては おらんことを 大事にしていても、
これから先の この世では
相手にされんことに なる ということなのじゃ
もう すでに 時空のゆがみは 解消されて、
あたらしい 世のなかづくりの 方向へと
向かいつつある のであるから
そんな ところで スピリチュアルやらを
いとも 大事に 思うておるもんは
これからの このよのなかでは、ワヤやわな。
                  (もしくは、ポイ)
みらいを そうぞう(創造)せい
ということは じぶんたちのてで
生みだしてゆく ということ
どっかの しゅうきょう(宗教)せんせいの いうこと
ありがたがって きいておっては
はい さいなら。  なのじゃよ
そのへん わかっておらん にんげんは
いつまでたっても じぶんの小宇宙のなかで
どうどう(堂々)めぐりを することに なるのじゃろ
ざんねん むねん、はい、さいならでした。
よくもわるくも にんげんに 指示や 指図を
するような 低級レベルのものを 有難がっている限り、
自分で未来を創り出してゆく
努力家さんたちチームのお仲間入りは、無理じゃろな
ほな これにて しゅうりょう ということで。


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通信-13年11月24日 
Tuesday, November 26, 2013, 12:11
(2013.11.24 am7:30) 

わたしが やしろに
たたかい やしろを
もうける ということは
えんえんと つづく
たたかいを
その み やしろに
おきかえる ということ
なのです
たたかいは かこくであり
そのみを やきつくさんと
するばかり なのでしょう
その み やしろが
しんぱんの うつわであることは
もう すでに おつたえずみの
ことでは ありますが
たたかい やきつくすことの
いみを しらぬものに とっては
すみかとなり (棲み家?)
そのやどぬし たるものとして
そんざいを しつづけようと
することでしょう
いながきを おいて
それらの しんにゅうを
はばもうとしても
それらのいとするものは
ぶっしつをこえ にくたいをこえ
あなたがたの いしきのりょういきに
はいりこみ すみかを(棲み家)えようと
することでしょう
やきつくすことの いみをしらないものは
いばしょを あたえることに なるからです
うちなるものが 欲する 動機と
よそから 入ってこようとするものの
欲する 動機 が おなじものと
なったとき
いばしょを ほっするものと
いばしょを あたえるものとが
同盟を 組むことに なるからです
自ら以外に 価値のある何か
というものを すうはいする ということは
それらのものに 居場所を
自らが かいほうし 与えているということです
乗り物や 操り人形のように
頭のなかで しゃべり 指示をするものが
その人間存在の 所有者になり
ああしろ、こうしろ、と言って
宿主たる にんげんに 指示をしはじめます
その 指示どおりに うごくことが
天の意であると 信じて
たにんを 教導し
破滅に 導いた にんげんの
どれほどまでに 多いことなのか
あなたがたが それらのレベルに
達するということは
それらの危険性をも はらんでいる
ということなのです
人間として その人間性を成長させた
ものであるならば
何が正しく、何が誤っているのかを
考え 判断することは 可能なはずであり
頭の中でしゃべる 自らにあらざるものの言う事を
真に受け それが あたかも真実であるかのように
たにんに言い伝えるものとは
一体 何ものなのでしょうか
無意識領域のなかで、
たにんを支配し 自らの手のうちに置きたいと
願うものは
そうやって 自らの意識領域を かいほうし
自らにあらざるものに 居場所を提供することに
なるのです
その アタマの中に居座るもの とは
はたして 正しいもの なのでしょうか
ほんらい 正しきもの とは 指示せず
干渉 することも ないものであり
レベルの低くエネルギーの強いものほど
そのみの しゅじんとして
たにんをも しはいをしようと するもの
であることに 気が付かないかぎり
あやまった 教導者として
その人生の みちを 誤り続けることに
なるのでしょう
うちなる存在のなかで
それらの 意識領域を 専有しようとするものを
焼き尽くしてしまわない 限り
自らが 住まいを 提供している という状況で
あることに 気がつくことは ないのでしょう
過去の宗教者が 犯した あやまちを
繰り返すのですか ということが 問われることに
なるから なのです
能力が たかまる ということは
その能力を どのような目的に 使おうとするのかによって
道を誤まり 戻って来ることの出来ない領域へと
踏み込むことになる 可能性があることを
知っておかなければ なりません
こたえは 予め 置かれています
見なかった 知らなかったという 言い訳をすることも
自由です ですが
何の目的を持って能力を使おうとしたのかが
決定的に 問われます
自らの存在以外に 尊いと思えるものに
その人間存在の居場所を与えるということが
意図するものが 何なのかを 知らない限り
しんぱんの うつわ として
やきすてる ということは
むずかしいものと なることでしょう
やきすて しまつをする ということに
躊躇があって 居場所を与え続けていることが
自らであることに 気が付かない限り
ほんらいのじぶんに あらざるものが 意識領域の
ご主人さまに なる ということなのです
あたまのなかで しゃべるものが
価値あるものである という 認識を持った瞬間に
ご主人さまが すり替わる ということを
言い続けて いるのです
人間としての自意識が 正しいものであるならば
自らにあらざるものの存在の言う事を
聞く必要もなければ その指示を真に受けることの
おろかさに 気が付くはずです
過去の宗教家 というものは
そうやって 自らにあらざるものによって
“つかわれて” きました
体(てい)のよい 乗り物 とは そういうことだからです
しんぱんのうつわ として
焼き捨てることの 意味を もういちど
よく 考えてみて下さい。
にんげんは、神たるものの 器にも なりえ、
悪魔たるものの 器にも なりえる ということを知り
それらのものを分離して 処分をするということを
常に意識をしておかない 限り
乗っ取られることになる、と、お伝えをしているのです
こたえは予め置かれていることの意味を お考え下さい


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