Tuesday, November 26, 2013, 12:11
(2013.11.24 am7:30)
わたしが やしろに
たたかい やしろを
もうける ということは
えんえんと つづく
たたかいを
その み やしろに
おきかえる ということ
なのです
たたかいは かこくであり
そのみを やきつくさんと
するばかり なのでしょう
その み やしろが
しんぱんの うつわであることは
もう すでに おつたえずみの
ことでは ありますが
たたかい やきつくすことの
いみを しらぬものに とっては
すみかとなり (棲み家?)
そのやどぬし たるものとして
そんざいを しつづけようと
することでしょう
いながきを おいて
それらの しんにゅうを
はばもうとしても
それらのいとするものは
ぶっしつをこえ にくたいをこえ
あなたがたの いしきのりょういきに
はいりこみ すみかを(棲み家)えようと
することでしょう
やきつくすことの いみをしらないものは
いばしょを あたえることに なるからです
うちなるものが 欲する 動機と
よそから 入ってこようとするものの
欲する 動機 が おなじものと
なったとき
いばしょを ほっするものと
いばしょを あたえるものとが
同盟を 組むことに なるからです
自ら以外に 価値のある何か
というものを すうはいする ということは
それらのものに 居場所を
自らが かいほうし 与えているということです
乗り物や 操り人形のように
頭のなかで しゃべり 指示をするものが
その人間存在の 所有者になり
ああしろ、こうしろ、と言って
宿主たる にんげんに 指示をしはじめます
その 指示どおりに うごくことが
天の意であると 信じて
たにんを 教導し
破滅に 導いた にんげんの
どれほどまでに 多いことなのか
あなたがたが それらのレベルに
達するということは
それらの危険性をも はらんでいる
ということなのです
人間として その人間性を成長させた
ものであるならば
何が正しく、何が誤っているのかを
考え 判断することは 可能なはずであり
頭の中でしゃべる 自らにあらざるものの言う事を
真に受け それが あたかも真実であるかのように
たにんに言い伝えるものとは
一体 何ものなのでしょうか
無意識領域のなかで、
たにんを支配し 自らの手のうちに置きたいと
願うものは
そうやって 自らの意識領域を かいほうし
自らにあらざるものに 居場所を提供することに
なるのです
その アタマの中に居座るもの とは
はたして 正しいもの なのでしょうか
ほんらい 正しきもの とは 指示せず
干渉 することも ないものであり
レベルの低くエネルギーの強いものほど
そのみの しゅじんとして
たにんをも しはいをしようと するもの
であることに 気が付かないかぎり
あやまった 教導者として
その人生の みちを 誤り続けることに
なるのでしょう
うちなる存在のなかで
それらの 意識領域を 専有しようとするものを
焼き尽くしてしまわない 限り
自らが 住まいを 提供している という状況で
あることに 気がつくことは ないのでしょう
過去の宗教者が 犯した あやまちを
繰り返すのですか ということが 問われることに
なるから なのです
能力が たかまる ということは
その能力を どのような目的に 使おうとするのかによって
道を誤まり 戻って来ることの出来ない領域へと
踏み込むことになる 可能性があることを
知っておかなければ なりません
こたえは 予め 置かれています
見なかった 知らなかったという 言い訳をすることも
自由です ですが
何の目的を持って能力を使おうとしたのかが
決定的に 問われます
自らの存在以外に 尊いと思えるものに
その人間存在の居場所を与えるということが
意図するものが 何なのかを 知らない限り
しんぱんの うつわ として
やきすてる ということは
むずかしいものと なることでしょう
やきすて しまつをする ということに
躊躇があって 居場所を与え続けていることが
自らであることに 気が付かない限り
ほんらいのじぶんに あらざるものが 意識領域の
ご主人さまに なる ということなのです
あたまのなかで しゃべるものが
価値あるものである という 認識を持った瞬間に
ご主人さまが すり替わる ということを
言い続けて いるのです
人間としての自意識が 正しいものであるならば
自らにあらざるものの存在の言う事を
聞く必要もなければ その指示を真に受けることの
おろかさに 気が付くはずです
過去の宗教家 というものは
そうやって 自らにあらざるものによって
“つかわれて” きました
体(てい)のよい 乗り物 とは そういうことだからです
しんぱんのうつわ として
焼き捨てることの 意味を もういちど
よく 考えてみて下さい。
にんげんは、神たるものの 器にも なりえ、
悪魔たるものの 器にも なりえる ということを知り
それらのものを分離して 処分をするということを
常に意識をしておかない 限り
乗っ取られることになる、と、お伝えをしているのです
こたえは予め置かれていることの意味を お考え下さい
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Wednesday, November 13, 2013, 12:40
(2013.11.10 pm8:55)
世の中には、
1伝えて、10理解する人間と、
10、や、100伝えても、1しか理解することが
出来ない人間が、存在をしている、
それらの人間が共存をするなかで、
能力のある人間は、
無い人間を補佐し、
有るものが、無いものに対して、
サポートを、する、ということ。
そういった、お互いがお互いを助け合う
互助精神といったものが、
これからの、この世界で、
必要なものとなります。それは、
有るものが、無いものを助け、
それぞれが 不平等のないように、
お互いを助け合う、という精神です。
あなたがたが 皆、
その考え方の根本に、則っていたならば
この世も、この地球全体も、
明らかにその様相を変えるものと
なることでしょう。
ひとつのものが、全体を奪うのではなく、
持つものが、持たないもののために
分け合うという その精神が、
この地球の有り様を変えることに
なるから なのです。
耳の有る者は、聞きなさい、と、
伝えられ続けてきた、この二千年の
地球の歴史が終わり、
新しい歴史をつくり出すものへと
受け継がれてゆくことの意味を、
お考えになられたことが、
あるのでしょうか、
全ての人類に対する告知は既に成(為)され、
それを、この地球上で生きる全ての
人間が、約束を履行することの意味を
問われる時期が訪れます
“あなた方に残された時間は短い”
と、お伝え続けてきたことの意味を、
よく、考えてみて下さい。
今回が最後のチャンスであったとしたら、
あなたは、何をする為に、
わざわざ この世に 生まれてきたもの
なのでしょう。
わたしにこれを、やらせて下さいと、
宣言をし、立候補をする人間の、
(あまりに)どれだけ 少ないことなのか。
それが、予め、伝えられてきたことの
立証であり、実証であることの 証明を
現実のこの世で証しを
させられている、ということなのでしょう
見たいものしか見たくはない、人間
というものと、
見たくもないものばかり見させられる
ことになる人間というものの
現実のこの世における温度差というものが、
“分けられる、” あるいは、
“分かれてゆくものとなる” という
ことの証左となってゆく
ことなのでしょう、
あなた方に残された時間は少ない、と、
お伝えをし続けていることの意味を
知るものであるのなら、
何を、するべきなのか、 あるいは
何が、必要とされているのかを
考えるだけの脳(能)力を 持っているはずの
ものであるということに、気が付きませんか、
“わたしに、これを、やらせて下さい。” と、
自己申告をするものの数の、
どれだけ少ないことなのか。
意志と志(こころざし)を、あらわにし、
宣言をするということの意味を、よく
お考え頂きたく、ご連絡を致します。
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Monday, November 11, 2013, 12:48
(2013.10.29 pm8:57)
この国は、西欧列強の奴隷です。
その事、その事実に気付かせないような
洗脳が、幾度にも渡り、成されて来ました。
自らの主人が何ものであったのかを
冷静に自らの頭で考え、
これまでのこのクニの時代背景というものを
同時に考えながら
このクニの成り立ちについて考えない限り、
閉ざされた塀の中にいることと
同じことなのです。
果たして教えてもらったこのクニの歴史というものが
正しいものであったのかどうか、
そのことについて疑問すら抱かせないような仕組みが
もしも周到に成されていたのだとしたら、
何が正しくて、何が誤りなのかを、
冷静に判断をすることが出来るのですかと、
問うて、問われているのです。
あなたがたの脳裏に、既に、焼き付けられた
このクニの歴史の事実と言われ続けているものが、
ある立場の人間にとって都合が良くなるよう
予め、操作が成されているものであったとしたら
どうされますか、
知って見て見ぬ振りをされるのですか
それとも その事実を黙認し、
見無かったことなされますか、
どちらを取っても同じことであることに
気が付きませんか
いつの時代においても、情報操作は、なされ、
知ったもの達が後世の方々に伝えなければならないという
使命感のもとに動くものであるのか どうか、
あるいは、不特定多数の 大勢のその他の方達と共に
何も見なかった、知らなかったという、
言い訳を言い続けていたいのですかということが
問われているということです。
自分の、頭で考え、
自分の、頭で判断し、
自分の、自身による行動を起こせないものが、
他人のことをとやかく言う権利など、
無いはずです。
他人のあらを見つけて、糾弾している
ヒマがあるのなら、
ご自身の改善すべき点に目を向けるべきとは思うのですが、
いかがですか。
自らが正しい人間であると思い続けていたい人ほど
他人のあら探しをし、それを追求したがる方である、
と、お伝えしておくことにします。
他者をひきずり落とすことで、ご満悦である
という偽善のもとになっているものとは、
一体何なのでしょうか、
それがあなたの意識の主体となっている時に、
何ものが、あなたの口を使って、言葉をしゃべって
いるのでしょうか、
そのことを冷静に考えれば、“つかわれるもの”と
お伝えしているものの正体が、分かるはずです、
以上です。
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Monday, September 30, 2013, 11:33
(2013.9.27 pm1:55)
私は、この世に、この世界に、
正しき世が訪れることを、ずっと
待ち望んできていました。
新しい、世、とは、ひとりひとりのにんげんが、
正しき目的のために、ひとりひとりが自らの意志を
あらわして、同じ志(こころざし)を持つものと共に、
働(はたら)く、という世界のことです。
誰かれの欲や 利害関係の介在しない、
ともに正しき目的のために はたらく、という
世界観です。
この新しき世の姿をあらわす(顕す)のが、
このクニがヒノモトと言われる所以(ゆえん)
なのです。
ヒ(日)は ひとびとを明るく照らし、
少しでも あかるき未来のために 希望を持つことの
大切さを、ひとびとに 知らしめることと、なるでしょう
あなたがたに託されているのは
そういった 正しき未来を 自らがつくり出してゆくことの
大切さを 次の(継ぎの)世代のかた達に
伝えてゆく、という 大事な お仕事です。
このクニの、この地球の 未来を
明るくするのも 暗くするのも 自分達のはたらき次第
ということに気が付いたなら
自分が自分の成すべき はたらき というものを
見つけ出してゆくことが 出来るのかも しれません
世の中の様相を 明るくするのも 暗くするのも
自分次第 ということに気付いたならば、
どういった おこないや行動 というものが
周囲を 明るく きれいにすることが出来るのかを
考えることが 出来るはずです
地球は 出会いと 学びの場
と 伝えられていることの意味を 理解することが
出来るのなら
人との出会いや 行動を共にすることが
自ら自身への学びであることに
気が付くことが できるはずです
汚れている場所は 掃除をすれば きれいになり
暗い場所には 灯り(明かり)をともせば すむはずです
あなたがたが、その あかり と なりなさい、
という とても シンプルな 解答が
見えては こないでしょうか
それが あなた方に 託された
だいじな おしごとです。
次(継ぎ)の世代のかた達に、伝えてゆくことの
大切さに 気が付いたなら
あなたは 受け取ったものを 軽くして
お返しすることの出来るかた なのでしょう
それが、伝えたかったこと です。
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Wednesday, September 11, 2013, 12:42
(2013.9.11 am10:30)
人間が、“○○の神”と呼び、
あがめていたもの、そのもの
それ自体が問題であり、
それらのものは、光と闇の合体物に過ぎない。
“天(あめ)降ってきたもの”と呼ばれ続けてきた
意識体のなかには
人々を支配し、その支配者としての立場に
君臨し続けることを望み、
永遠にそのシステムを構築し続けたい(よう)と
するものが数多く存在している(あるいは、していた※)
それらの、オセロの駒のような、裏表(あるいは白黒)
併(あわ)せ持つ、その仕組みを、
その全体像を、
外部から、あるいは、フカン的に
外側から見ることが出来ない限り、
人間は、その(人工的な、あるいは、つくり上げられた)システムの全体像を
理解することは出来ない、
自らに恩恵をもたらしてくれると
人間が信じたがってきた(いた)ものの
正体を知ることが出来ない限り
システムの内部に取り込まれたものであることに
気が付くことは難しい、
ということである、
人が、既に、神というものを超えた存在で
あることに 意識をシフトすることが
出来ない限り、
小さな小箱の中に閉じ込められたものを
解放(開放?)することは
とても難しいということである、
様々な過程と、それに伴なう学びがあって、
(あったからこそ)到達できることの出来る領域があり、
苦難や艱難を経験したものでしか
乗り越えることの出来ない、大きな山がある、
それを知り、それでも前へ進むのか、
あるいは、それらを避けるための言い訳を
考え続け、冷たい水の中へと足を踏み入れる
ことを、拒み続けていたいのか、否か。
それらを、あなた方が自らの意志で選択をしなさい、
ということである、つまり、結論を選び取るのは
自ら自身の判断と決断以外の何ものでもない、
ということである、 以上。
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