通信-11年3月8日 
Thursday, March 10, 2011, 17:00
(2011.3.8 pm6:受)

ひとつだけ、
たったひとつ だけでよいから
自分の得意とするものを
見つけ出しなさい
それが、 あなたが あなた自身を助くる
唯一の手段となるから です
みちを かたちづくる、 ということは
自らにとって 得意な分野において
人間社会のなかで、それを活(い)かし
“はたらきなさい” ということなのです
ひとはひと、じぶんは、じぶん、ということが
理解することが できたなら
たにんと比べるということの あさはかさに
気が付くことが 出来るはずです
乗り物になると 支配をされます
それは じぶん、自身 というものが
確立なされていないためです
中心軸というものが ない限り
すぐさまに 揺らぎ というものが 発生します
ほかからの干渉に 影響を受け
右へ左へと 意見の“ぶれ”が 派生します
その影響を受け続けると
他から入ってきた情報網に操作をされます
あたかも それらの情報が
正しきものに感じてしまう、という
脳内での支配権を得たものが
ご主人さまになる、という錯覚が
起こります
自ら自身の理性的な思考回路が
確立されていない限り
よそから入ってきたものの影響を
受け続けます
そうして、「責任」というものが どこにも存在しない
暗黒の回路へと、 ひとは 導かれて
堕ちてゆきます
ひとりでゆくなら 楽なのですが、
周囲の人間を巻き込む可能性が
とても 高いのです
その回路系のなかには
自らこそが 正当である、という
いつわりの 神のごとき意識体が
存在をしています
そうやって人間は 自ら自身の
全く 認識のできていない領域で
暗黒のやみの中へと、落ちて ゆくのです
それを まなばせてもらったのだということが、
今回の お勉強 だったのでしょう
いちど 学んだことならば
骨身にしみて わかった はずです
人間は、こうやって いとも簡単に
自らの 自意識を 支配 されます
自らが経験をしてみなければ
それがどのようなものであるのかを
理解することは できません
それが、 精神を、
人間精神を 学ぶ
ということの根拠である、
ということなのです
ご理解をして いただけましたでしょうか

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通信-11年2月26日 
Wednesday, March 9, 2011, 13:49
(2011.2.26 pm0:30受)

何かを おそれているかぎり、
その、おそれているものの 支配下に、
置かれ続けることになる
自らのなかに、根差す、
その悪魔的意識体のようにも
思えるもの、とは
あなた自身が つくり出した
小宇宙のなかに 座を占め続けているものに、
過ぎません
おそれを抱いて そのおそれを
感じないで済むためには
そのものの支配下に入ることが
解決策であることを
自身が 知っているからです
ひとの意識にはたらきかけて
恐怖と支配を その意識のなかに
充満させるもの
魔的なちからを行使するものは
その支配下に自らの座が置かれていることに
気が付くことは、ない
自らの 望んでいる 自ら自身のものさしのなかで
正邪のより分けを しようと する もの
それらのものの 言い訳は
自らの正当性を主張し続けるものの
代弁者として
自らの口から発されているものだということに
気が付くものは ない
いくつもの タイプの違うもののようにも思える
その 悪魔的な意識を持つものが、
実は 1つの単体のもので多面を持ち合わせて
いるだけのことであるということに
気が付くものは ない
つまり、いくつもの種類を持ったものが
複数 存在をしているように
思い込む、
その実体は、いくつもの多面性を持ち合わせた
ひとつのものであることに
気が付くものは、ほとんど、いない、
ということである
恐れを抱いて、その傘下に入るということが、
支配、被支配の 引力圏のなかに
つなぎ止められているものであることに
気が付くことが 出来ない限り
あなたがたの シンの 解放というものは
望むことはできないのでしょう
魔的なものを おそれ
そこから逃げ出すことしか 方法を考えられないものに
どうやって 正しき解決策を見つけることなどが
できると言えるのか
じっと その正体を見据えて
つきつめない限り、その引力圏からの
解放というものは 望めないのでしょう
何を手放し、そして、何を構築してゆくのかを
判断し、決断をして、おこなうのかは
自身の判断に委ねられているのです
人に頼り続けているかぎり
自身の自立は ないのでしょう
相談をして 意見をあおぐのも、
ひとつの案です
ですが、そこから得たアドバイスをもとに、
どう うごくのか、どう行動をするのかは
自ら自身で 決断をしなければ
ならないものなのです
あなたの人生の主催者は
あなた 自身に すぎません
何度もいうようですが、
その人生を まっとうに
まともに生き抜くための 地図が
何なのかを、まだ、気が付くことが
できないのですか
助くるものは、おのれなり
その、己(おのれ)の人生の時間軸を
正しい向き に 正しい方向性を持ち
つぎのものへと つないでゆくことが
あなたがたの はたらき なのでは
ないのですか
自分の生きている時間軸内だけ
快適であれば よいのだと 思い続けていたいもの
それが どちらの方向性を向いているのかを
自覚することが、必要なのかも
しれません
人間のからだを持って 生きている時間は
長いようで、みじかいのです
そのことを、よく
考えてみて下さい

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通信-11年2月21日 
Wednesday, March 9, 2011, 13:22
(2011.2.21 pm10:10受)

自分が、その道に
つながっていると
確信しているのならば、
解決策は、
かならず、自分で
見つけることが 出来るはず。
どこかから、何かを、
自分に与えてくれることを
待つのではなく、
自らが、動き出し、
解決をするための、こたえを
探しにゆく、ということ。
自らが、動き、こたえを見つけ出してゆくために、
人生という、その場は、
提供をされているものである。

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通信-11年2月11日 
Monday, February 14, 2011, 17:40
(2011.2.11 am0:20受)

どれだけ過酷であったとしても、
どれだけ、限界まで苦しめられることに
なったとしても、あくまでも、それは
“お勉強のひとつ”、に、過ぎません
たとえそれが、あなたがたにとって
ムチ打たれるような、
あるいは針のむしろに座らされるような
ことであったとしても、です。
精神、人間精神そのものを、学びの対象と
するという、学問は、かつて、このちに置かれたことは、
ありませんでした。
人(ひと)の生き死と、その時間的経過のなかで、
自らが選んだその人生のテーマというものを
見つけ出し、自身がそのことに気付くために、
人は、その動機付けのようなものを与えられて、
生まれ、そして、生きています。
見つけ出すことの出来たひとと、死ぬまで
それを探し出すことの 出来なかったひと、
その短くも長い一生を生き抜くために
自らの動機付けというものが、有る者と
無い者、人生という、みじかい、そして、
長いものとも思われる期間に、
あなたがたは、どれだけのことを
学び、そして、その学びを生かして
生きるものと、なりますか。
ひとの一生というものの時間的
経緯を考えたときに、どう生き抜く、
存在のあり方が、自らにとってのテーマであると、
思われ、そして、考えますか。
当たり前のように生まれ、そして死にゆく人として、
自らの存在の 意味について考えることもなく、
一生を、終えますか。
ときは近付き、約束された、さばきの時が、
訪れようと、しています。
ひとりひとりの人間のうちで、それらの事は起き、
ひとりひとりのそのたましいに描かれた
物語のストーリーによって、すべての事柄は
明らかなものになるのです
“どう、生きるのですか。”それが、問われます。
そして、どう生きたのか、が、問われて
さばかれます
死んでその身の耐久力が終えられたときに、
その肉体を、何の為に、どのように使ったのかが
問われます。
身を粉にしてまでも、他人のためにはたらいたものは
その事実が確かに刻まれることになるのでしょう、
自らの快楽のために他人を潰してまで、
その身の快適さを確保しようとしたものには、
それ相応の対処が、なされることになるのでしょう。
人々が求め続けてきた、正しい世の中のあり方
というものが、
このちにこの世において実現されるために、
過去の正しき祈りというものは、データとして
存在をし続けてきました。
人のゆく末を決めるもの、それは、
ひとのはたらきに、かかっています。
ひとりの人間の投げた小石は 波紋を生み、
いくつもの波紋と波紋は それぞれに呼応をし合う
ことに、なるからです。
ひとが、誰かがそれを始めてくれることを
待つのではなく、自らが、はたらきかけて、みることです、
あなた方の行動力や言動力が、
世のなかの動きを変えてゆくものになるはずだからです
行動を起こしたことのあるものならば、それらのしくみが
理解できるはずです。ひとつの駒を、自らの手で
動かして、みることです。動かしてみなければ、
周囲の状況は変わりようがありません。
動かして、みなければ、その次の動きは
起こりようが、ないからです。
この世が大きく変わるときが来ているようです
自らの引く手綱を、見間違えずに
きちんと、見極める努力が 必要とされます。
自らの 生まれてきた目的を、きちんと認識をしておくことが
第一の前提、第一の、目標です。
それらの認識ができていないと、目標のゴールを
見定めることができないままに、人生という時間軸を
放浪することに、なるからです。
クニが変わります。クニのあり方そのものが、刷新されるべきときが
近づいて来ています。
今が、おそらく、そのトキ、なのでしょう。
短い間に見付け出すことの出来るもの、
あるいは、長期にわたって、さまよい続けることになるもの、
両者が混在しているのが、今の世、なのです。
まっとうするべき人生と、
他者の干渉を受けて、本来のものとは
違った人生を歩んでしまうもの、
人それぞれの持ち時間のなかに、
本来の正しき目的を見つけることの出来たものは、
さいわいなのでしょう。

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通信-11年1月27日 
Friday, January 28, 2011, 11:39
(※以下のようなイメージ映像が見えた後)



(2011.1.27 pm1:30受)

罪 背負いたままに
去ることはできぬと 申すもの
いっしんきょうの よよ から
抜け出したいと もの 申すもの
はいりて きては その
小宇宙のなかに
座を 占めし
見つけ出してもらうことを
待っている
うつしみ うつしみ
認識をしてもらえない限り
それらが データとして
ひのもとに 浮上をしてくることはあらず
その 小宇宙のなかで
自らの座を持つことさえも 許されずに
閉じ込められて、いる
自らが かくまいた、その、
十字架を とき放ち、
解放(開放?)を、すること
ひのもとに さらされ
あかるき 場所に 出さない限り
縁(円?)を きることは
できるまい
うち側の やみは 外側にも
反映をされ、それらは あたかもそれは
合わせ鏡のように
小宇宙と 物質界とを反映をする

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