通信-09年7月2日-3 
Monday, July 6, 2009, 06:57
(2009.7.2 am3:40受)

みずからの おかした そのおこないは
自らの責任の範疇のものとみなされ
消えることもなく、書き換えられることもなく、
ただ、その存在のなかに、
まぎれもない事実として置かれ、
残されている
あなたがたが その 自らのした
おこないに対する 責任を取らない限り
契約を自ら破棄したものとして見なされ
審判の場へと 歩みを進めることになる
つまり どうされたいのかを
決める権利は ご当人に与えられ
その選択により 自らの歩む道は
決まるということである
見逃してもらえるだろう
許されるだろう という
甘い期待を抱かれている方々には
それらは無いということを
お伝えする必要があるようです
自らが希望し 期待をし続けている
手に入れたい結果、とは
一体 何なのでしょうか
契約を履行することが出来ない人間ほど
もっともらしき言い訳を 著述したがるものです
それらの主張が なされる
その存在のもととなっているものとは
一体、何なのですか
どこへ向かって歩みを進めているのかが
わからないものは
その自身の責任を 他のものへと転嫁を
したがるものです
そのおこないを続けていることが
いかに不毛なことであるのかを
知らせ伝え続けていることが
どうやら よほど その存在の中の
ある部分を 逆なでしていると
思われている ようです
自らの存在のなかに、
それらの指摘がなされると 過剰に反応をし
異議申し立てをしようとするものが
出現してくるのは 何故なのですか
自らの存在のなかに 指摘をされている
そのもの通りのものが
置かれ居場所を持っているからこそ
そこに光があたると
過剰に反応をするのではないのですか
自ら自身が克服をしていないテーマに
光が当たり活性化をするから
反論をしようとする感情が、わき上がって
来るのではないのですか
既にそれらを克服したものから見れば
納得し受け入れられるはずのものでしかないのです
その存在の闇に光が当たると活性化をするとは、
それらのことを意味しているからです
否定し、反論をし続けるのはご自由ですが、
そのままの状態で、ご自身の人生の終焉まで
変わることなく過ごされますか
どうですか
まぎれもなく その ご選択は
ご自身で しなければ ならないものとして、
目の前に用意がなされています
ふたつに ひとつ の その選択の
選別には あるひとつのルールが採用され、
そのルールのもとに 選択は
本人によって委ねられているものだからです
それが、正しいものなのか、否か。
好き嫌い、良し悪し、という基準は
採用されては いないのです
それを よく お考え下さい
正しき選択なのか、否か
それだけでしか、ありません
ご自身に 様々な欲を お抱えになられたかたには
厳しい現実なのかも知れません
ご自身が抱え持ち続けていたいものが
何なのかを、決定的に問われることに
なるからなのです
どのような判断を下すのかは、
ご自身で決めるしか ないのです
ご自分の人生を考え続け その主導権を持ち
行動するのは自らの意志決定でしかないからです
トラウマや、受けた傷というものに
いつまでも シュウ(執)着し
その被害者意識を その根っこに
持ち続けている限り、
何の解決にもつながらないことを
理解されたほうが よいのかも知れません
それがそこに存在をし続け
居場所を強固に持ち続けている限り
己の欲深さを捨てて 周囲の為に
はたらき続ける人間となることは
とても難しいからなのです
そのために、まず自ら自身の掃除を
しなさい、と いい続けているのです
その悔い改めの意味が、わからない限り
周囲の状況が変わるということなどは
不可能に近いからなのです、
自らの中に、ちりが沢山積もっていて
どうやって周囲のちりが片付けられると
言えるのですか
物事は理屈でしか ありません
そのことを よくよく
お考えになってみてください


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通信-09年7月2日-2 
Sunday, July 5, 2009, 10:58
(2009.7.2 am1:40受)

収益性を もたらさない人間は
存在している価値はない
マイナス人生を
どこまでプラスに変えられるのかが
問われているに過ぎない
プラスに変える能力 イコール
その人間の収益性 だからである
益とは 単に マネーのことを意味するものでは
ないことに 気付かなければ ならない
そこで気付かなければならないことは
現代において、その益の価値基準
というものが マネーというものに
置かれている ということである
大金をかせぐことが 益である という
判断を基準とするものは
それらのペーパーマネーの幻想の中で
生きて死ぬものである
結果何がもたらされるのか という論点を
考え続けない限り
新しき未来、新しき時代ということを
見据えることなどは 不可能に近い
ベネフィットという ことばの
もたらす その真の意を問い続けない限り
新しき未来の展望を望むことなどは
不可能に近い
つまり「何が」もたらされるべきものなのかを
論拠にしない限り
新しき時代に必要とされているものが
何なのかを発見することは難しい
マネーの幻想は既に崩壊をし
人間は その自ら自身がつくり出した
マネーという概念によって
その主体性が崩されるという事実を
目の当たりにさせられる
つまり 自身の存在基盤となる土台であると
考えられてきたもの自身に
足をすくわれる あるいは すくわれた
ということである
事実はこのように明確に浮き彫りがなされ
崩壊と倒壊という極(局?)面を
迎えることにより その先を考える
必要性にせまられる
人間の意識(イシキ)というものは
危機的極(局?)面において
為さねばならない 選択
というものを その状況下において
選び抜き 見付け出すという行動において
その是非が問われることになる
プロフィット ベネフィット それらの価値基準
というものが どういった視点で とらえられるのか
それが問われている ということである
つまり どういった方向性に基き
どういった未来を想定して仮定するのか
という 判断が選択が 根本より
問われ続けている ということである
支配し 巻きあげて サクシュ(搾取)するという
古い これまでの このちにおける
やり方での 失敗 というものは
自ら自身の選択ミスというかたちで
このように顕現化され あらわされることになり
それらの責任を 人間は
自身で負わされることになる ということの意味を
人間自身が問い その意識領域内で考え続け
次の選択をしない限り
その打開策というものを見付け出すことは
不可能に近い
堂々巡りを同じ場所で し続けているという
その不毛さに 気付かない限りは
その アタマでっかちの領域から
脱することなどは 不可能に近い
ということである
つまり 次の時代をつくるために
ハタラクのか 否か ということが
問われているだけの 話であり
その濁りよどんだ意識領域を
自ら自身が掃除して
盲目の羊から自らの意志で脱するのか
否か という提議が なされているだけの
話でしか ない
当然のことながら その 議題に対する
決議は 自らの意識領域内において
決定が成されなければならないものであり
正しくは その取捨選択が
問われている ということが課題として
用意がなされているものであることを
お伝えしているに過ぎない
それが 正しき認識内における判断なのか否か
あるいは どういった論点を基に
考え出された意見なのかが
徹底的に問われる、ということである
つまりは己の セイ(聖?正?)なる部分からの
解答なのか あるいは ボン なる部分からの
回答なのかが 問われているということであり
絶対的なシン(芯)となる キテン(基点・起点)がそこに
存在をしていない限り
それらの提議は もろくも崩れ去ることになる
揺らがず そして 正しいものであり続けるものであるのか 否か
その真意が問われ そのすぐ目の前に
突き付けられている という状況を
知らなければ ならない
自らの存在の責任が問われ続けている、
というテーマは、全ての人間に課され、
契約が、約束が果たされるのか否か、という
その選択が問われているという事実が、
お伝えをしている 審判という 概念であり、事実である
様々な論点における選択肢が列挙された場合、
ある特定の価値基準における判断を下すのではなく、
多様性と流通性 かかるコストや 経費、費用の面での
練り合わせというものが 必要になってくる
あたらしき 経済性をもたらす 核となり
軸となり得るものなのか 否か
可能性と現実性の両者が そこに
そなわっているものなのか 否か
様々な角度からの視点で
その是非を問い続けることが必要とされる
それらの整合性がもたらされた時、
1本のゆるぎない道筋というものが確実に見えて来る筈である
そのためにも 何をキテン(基点・起点)としているものであるのかを
認識しておく必要性が求められているのである


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通信-09年7月2日-1 
Saturday, July 4, 2009, 08:21
(2009.7.2 am0:20受)

今いる環境を改善する為に
何が必要であると思われますか
正しきものは 責任を取る ということの
意味の重要さを どのようにお考えに
なりますか
見ていない、聞いていないから
わからない、なのではなく
何をどのように することが
必要とされているのかを
いちど お考えになってみては
いかがでしょうか
あらそいごとを断つために
必要なこと、とは、一体何なのでしょうか
ひとと ひととのかかわり合い
というものは、それぞれの自己責任において、
全てが委ねられている ということを、
人は、その意味を知ろうとはしないものです
見ない聞かない、知り得ないから
わからない、だから、その責任を
取る必要も、ない、という
不思議な 言い訳が、何故か
成立するのだと考える人間がいる
ということが、この世に、このちに
い続ける限り、争いの火種というものは
消えることは ないのです
ひとりひとりの人間が
そう思い続けていることが、このちの
狂った姿を継続させることに なるのです
なぜ自分ばかりが その責任を
負わなければ ならないのか
という 不当な扱いであるとの不服、
異議申し立てをし続けるものが
世のために、周囲のために
たたかい続けるものになることは
ありえません むしろ その
自ら自身の納得出来ない、そのおもいを
対象となるものに 抱き続けていることが、
どういった影響を周囲に及ぼしていると、
思われますか
不平や不満のおもいというものは
相手を憎み、恨みを抱くというものに
変化をします そのおもいそのものが
イエスを殺したエネルギーであることに
何故 向き合おうとは しないのですか
あなたを苦しめ あなたを支配している
エネルギーが あなたのうちに
存在をし続けている限り
自ら自身のその存在をしているステージからの
移行というものは望めません
自ら自身を正当化し 異議申し立てを
し続けるものが 不服のおもいを
抱き続けるものが その存在のなかに
あり続ける限り 一歩たりとも
動き 進むことなどは、あり得ないのです
自ら自身を学び、乗り越えなければならないのは、
自ら自身であると 言い続けていることを
直視しようとしない限り、成長や脱皮をして
新しく生まれ変わる、ということなどは
あり得ません
それらの事実は既に あなたがたには
お伝えをし 知らせは済んでいるものです
担うということの重要性も、既に
お伝えしました ですので、
どう あなたがたが 行動をするのかが
問われているということに
はやく お気付きになられたほうが
良いのかもしれません
ルールにおいては 言い逃れや言い訳
というものは存在をしていないからです
どう お考えになるのも あなたがたの
ご自由ですが
ルールは ルールとして 厳然たるもの
として存在をしています
つまり 誰ひとりとして特例というものは
認められては おらず
ひとは その自らの おこないによって
裁かれる というルールが
既に このちにおいて サハイ(差配?)が
なされているためです
契約を履行するのもしないのも
ご自由なのですが
どこに足先を向けておられるのかを
よく ご自身で お確かめになられたほうが
良いのかも しれません
ぬすみ 奪い 自己の正当化を主張するもの
とは 一体 誰のことを指し示して
いるのでしょうか
よもや自分のことでは あるまい、と
言い聞かせている
あなたご自身のことなのかも しれないのです
小さな子どもでも知っている
すべきではない 行(おこな)い とは
どのようなものであると お考えでしょうか
たにんをののし(誹)り、自分の正当化を主張して
相手を自らの支配下に置こうとするもの
支配と被支配の関係性を
自らの場合には利用できると思い続けるもの
聞く耳を持ちなさいと いい続けていることの
正しき解答を見ようとする意志すら
持ち得ないもの
それが見たいものしか見ようとしないものの
特性というもの なのです
同じことを何度も何度も
あなた方には お伝えをし続けてきました
どのように受け取り どのように考え
どう 行動を おこすかは
おのおのの 人間に委ねられています
ですが、審判 というルールが
このちに置かれたことの意味を
お考えになれば
どのような生き方を完遂すべきなのか
という問いに対する解答は
自ら自身で導き出せるはずのもので
あることに気付いて下さい
どう ご自身の生をまっとうするのかが
問われている ということだからです


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通信-09年6月23日 
Tuesday, June 23, 2009, 13:01
(2009.6.23 am9:46受)

ネットの世界は
ネット(網)です
つむいで 織られた
いと(糸・意図)の関係に乗って
どういった情報網が
伝播されていると 思われますか
正しき伝達事項も あれば
なかには 悪意のものまで
様々です ですが
それらの情報伝達が
あくまでも 横と横との
つながりでしかないことに
気が付かない限り
自らの上方へとつながる道を
見つけ出すことは ありません
周囲のことに 気を取られているうちに
見つけ出すべきものの 存在
というものに 気付くことは
ないのです
そうやって無為(意)で無益な時間を
消耗している時間が あるのなら
自分ひとりで
自らの存在の内側を
徹底的に検証なさってみては
いかがですか
他者とのつながりが 自らのなかで
重要な位置づけであると お考えのかたには、
他者から流れ込んで来る
ある種の 人的エネルギーというものに
早く お気付きになられたほうが
よいかも しれません
それらの闇のおもいのエネルギーは
相手を 汚染しています
自らが自覚さえしていない限り
全く何の罪もない、という
意識のすり替えが、その意識のなかで
なされている限り
自ら自身は安全である、という
一種の不思議な思い込みと
納得というものが
そこには存在しています

そうで しょうか

ひとりひとりの人間存在に
課せられ負わされているのは、
自ら自身の存在に対して 責任を
取る、というものです
つまり 「審判」という概念です
無いと 思われる方には
のちのち ご自身の 人生の集大成
として、自ら自身が してきた事を、
見せられ 知らされることに なるのです
でなければ
周囲を 汚染し 平然とした態度を
とり続けるものと
ひととしての まっとうな意識を持ち続け
他人の泥をかぶり続けた人間とが
同じ終着点に到達するということなどは
ありえないから なのです
責務を 自ら自身で 負いますか
負いませんか
それだけの話でしか ありません
ご理解をして いただけましたでしょうか

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通信-09年6月21日 
Monday, June 22, 2009, 15:24
(2009.6.21 am11:55受)

排出をし、自らが対象物となるものに
送り込むということを し続けていることを
当人が自覚をしない限り
それらの行為は延々と続けられ
それらの責任について、
自らの行いであることをダンキョウ(キュウ?)し
自ら自身が その目には見えない
行為をやめない限り
自らのなかで拡大再生産を し続けられた
それらの闇のエネルギーは
当人が自覚しようが、しまいが
つくり出されては、排出が、なされ続けている
節足類である海中の生きものは
自らの身を守るために固い殻を持ち
その殻のうちの生(なま)身が
外敵からの攻撃に 耐え得るように
プロテクトをされている
軟体動物である蛸は
自らの体内でつくり出した黒いスミを
外部へ向かって排出をし、放出をし続ける
身をまもるために、固い殻を持ち
外部に向かって黒い墨を吐き出し
続けるもの、とは
一体、何のことを あらわしていると
思われますか
多くのにんげんが、そうやって
自ら自身を護(まも)るため、外部からの
侵入を阻止して、そのくせ 自ら自身は
黒いものを吐き出し続けています。
そう、“自ら自身を護(まも)るため”という
言い訳のもとに、それらは何故か
その人間のなかで、正当化された
ものとして許可され、認可をされて
堂々と成立した 言い訳として
存在をし続けています
よもや 自分のことでは あるまい、と
お考えの方々は、自ら自身の
その小さな小宇宙の外部に立って
その内側をよくよく ご覧になってみては
いかがでしょうか
わたしのことでは ないだろうな、と
おびえ不安になっている 暇と時間があるのなら
早くそれらの不安要素 と自覚しているものと
徹底的に向き合い、じっくりと観察をし、
解決するには
どうしたらよいのかを
お考えになってみては
いかがですか
「わたしは何も悪くはない」
「むしろ自分は被害者だ」
というおもいが 自らの根っこに
ある限り、
自らが 苦難な状況に追い込まれてでも
他人のために はたらくことができる
人間になるということは ありません
その自らの内部にある
不完全燃焼のまま
くすぶり続ける 黒いおもいは
ご当人の自覚とは反して
いまも外部に向かって排出が
なされ続けて いるのです
自らの その問題点が 解決が
なされていないのに
どうやって 他者のために
はたらけるのだと 言えますか
何故に、あなたがたは
それらの 単純な理屈 というものに
目を そらし 続けるのですか
なぜ 自らの暗部には 目もくれず
他人のあらばかりを
見つけては 追求を したがるのですか
他者を 自らの 支配下に 置くことが
楽しいのなら
あなたは その世界で生き、
生存を続け 去らなければならないものである
ということを、
お知らせ しなければ ならないのです
わたしは 何も していない
という その 自身の おもいが
固い殻に なり続けていることに
なぜ、気が付きませんか
殻を持ち、外部からの侵入を防いで
安全である という 安堵感を持ちながら
黒い 墨を 吐き続けているものが
何もので あるのかを
いちど お考え いただけないでしょうか
うちから 出るものが、
あなた方の 内側から 出るものが
けがすものであると、
イエスは 二千年も、
2000年も前に
そのことばを このちに置いて
人間に それを 知らせて
きたのです
外部に出して まわりを汚(けが)すのは
あなたがたが 排出を し続ける
ことばであり そのもとたる
おもいです
自らのなかで 不完全燃焼のまま
くすぶり続けて 黒い墨のような
あるいは 黒い煙のようなものに
変化(げ)した
それらの おもいの もとたるものは
一体、どこから発生し
生産されて ソウ出された もの
なのですか
正しきものは、
正しきものは 責任を取るものです
外部に出して 周囲を汚(けが)したものは
それらの自己責任の処理を
になうものです
何ひとつ 文句も言わずに
ぐちや 不平や 不満の おもいや
ことばを 創出することもなく
黙って 汚(よご)れたものを 受け取って
掃除をし続けている 人間存在を
一体 どのように お考えなのでしょうか
ていの良い、自らにとって居心地と
都合の良い、自らを助けてくれるもの、
という、その、はかりで測られたような
認識が その意識のなかに
存在をしている限り
ご自身が 正しくはたらくものと
なることは ないのです
何かがあったら 何とかして
「もらえる」 という おもいが
そこに 潜んで いるからです
自ら 自身で 学び 自ら自身が
するべきことが 何なのかを 知るものは
歩みの速度が はやいのです
どうするべきか 何を為すべきなのかを
理屈で考え
実際に行動を起こすことが
それらの 成長の速度を
加速することが 出来るからです
きほん地図と なるもの
それらと ともに 現 実学で
ある 学びのプログラムは
何の為に置かれて 用意が
なされているものだと お考えですか
それらの 学びのプログラムは 現実に
生き、行動をしてゆく上で
すくなくとも 自らにかかる負荷を
解消し、処理してゆくために
知り学んでおくべき 現実の
このちに 存在をし 人間相互に
影響を及ぼし続けている
ある種のエネルギーであることは
既に何度も お伝えを しました
きちんと学び、きちんと自らのなかで
置かれるべきところに 整理をされて
置かれた それらの知識と情報は
しかるべきときに 役に立つよう
あらかじめ用意がなされているものであることに
気付いてください
頭のなかに何も残っていない
と 言うものは 言い訳でしか ないのです

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