Monday, June 22, 2009, 15:24
(2009.6.21 am11:55受)
排出をし、自らが対象物となるものに
送り込むということを し続けていることを
当人が自覚をしない限り
それらの行為は延々と続けられ
それらの責任について、
自らの行いであることをダンキョウ(キュウ?)し
自ら自身が その目には見えない
行為をやめない限り
自らのなかで拡大再生産を し続けられた
それらの闇のエネルギーは
当人が自覚しようが、しまいが
つくり出されては、排出が、なされ続けている
節足類である海中の生きものは
自らの身を守るために固い殻を持ち
その殻のうちの生(なま)身が
外敵からの攻撃に 耐え得るように
プロテクトをされている
軟体動物である蛸は
自らの体内でつくり出した黒いスミを
外部へ向かって排出をし、放出をし続ける
身をまもるために、固い殻を持ち
外部に向かって黒い墨を吐き出し
続けるもの、とは
一体、何のことを あらわしていると
思われますか
多くのにんげんが、そうやって
自ら自身を護(まも)るため、外部からの
侵入を阻止して、そのくせ 自ら自身は
黒いものを吐き出し続けています。
そう、“自ら自身を護(まも)るため”という
言い訳のもとに、それらは何故か
その人間のなかで、正当化された
ものとして許可され、認可をされて
堂々と成立した 言い訳として
存在をし続けています
よもや 自分のことでは あるまい、と
お考えの方々は、自ら自身の
その小さな小宇宙の外部に立って
その内側をよくよく ご覧になってみては
いかがでしょうか
わたしのことでは ないだろうな、と
おびえ不安になっている 暇と時間があるのなら
早くそれらの不安要素 と自覚しているものと
徹底的に向き合い、じっくりと観察をし、
解決するには
どうしたらよいのかを
お考えになってみては
いかがですか
「わたしは何も悪くはない」
「むしろ自分は被害者だ」
というおもいが 自らの根っこに
ある限り、
自らが 苦難な状況に追い込まれてでも
他人のために はたらくことができる
人間になるということは ありません
その自らの内部にある
不完全燃焼のまま
くすぶり続ける 黒いおもいは
ご当人の自覚とは反して
いまも外部に向かって排出が
なされ続けて いるのです
自らの その問題点が 解決が
なされていないのに
どうやって 他者のために
はたらけるのだと 言えますか
何故に、あなたがたは
それらの 単純な理屈 というものに
目を そらし 続けるのですか
なぜ 自らの暗部には 目もくれず
他人のあらばかりを
見つけては 追求を したがるのですか
他者を 自らの 支配下に 置くことが
楽しいのなら
あなたは その世界で生き、
生存を続け 去らなければならないものである
ということを、
お知らせ しなければ ならないのです
わたしは 何も していない
という その 自身の おもいが
固い殻に なり続けていることに
なぜ、気が付きませんか
殻を持ち、外部からの侵入を防いで
安全である という 安堵感を持ちながら
黒い 墨を 吐き続けているものが
何もので あるのかを
いちど お考え いただけないでしょうか
うちから 出るものが、
あなた方の 内側から 出るものが
けがすものであると、
イエスは 二千年も、
2000年も前に
そのことばを このちに置いて
人間に それを 知らせて
きたのです
外部に出して まわりを汚(けが)すのは
あなたがたが 排出を し続ける
ことばであり そのもとたる
おもいです
自らのなかで 不完全燃焼のまま
くすぶり続けて 黒い墨のような
あるいは 黒い煙のようなものに
変化(げ)した
それらの おもいの もとたるものは
一体、どこから発生し
生産されて ソウ出された もの
なのですか
正しきものは、
正しきものは 責任を取るものです
外部に出して 周囲を汚(けが)したものは
それらの自己責任の処理を
になうものです
何ひとつ 文句も言わずに
ぐちや 不平や 不満の おもいや
ことばを 創出することもなく
黙って 汚(よご)れたものを 受け取って
掃除をし続けている 人間存在を
一体 どのように お考えなのでしょうか
ていの良い、自らにとって居心地と
都合の良い、自らを助けてくれるもの、
という、その、はかりで測られたような
認識が その意識のなかに
存在をしている限り
ご自身が 正しくはたらくものと
なることは ないのです
何かがあったら 何とかして
「もらえる」 という おもいが
そこに 潜んで いるからです
自ら 自身で 学び 自ら自身が
するべきことが 何なのかを 知るものは
歩みの速度が はやいのです
どうするべきか 何を為すべきなのかを
理屈で考え
実際に行動を起こすことが
それらの 成長の速度を
加速することが 出来るからです
きほん地図と なるもの
それらと ともに 現 実学で
ある 学びのプログラムは
何の為に置かれて 用意が
なされているものだと お考えですか
それらの 学びのプログラムは 現実に
生き、行動をしてゆく上で
すくなくとも 自らにかかる負荷を
解消し、処理してゆくために
知り学んでおくべき 現実の
このちに 存在をし 人間相互に
影響を及ぼし続けている
ある種のエネルギーであることは
既に何度も お伝えを しました
きちんと学び、きちんと自らのなかで
置かれるべきところに 整理をされて
置かれた それらの知識と情報は
しかるべきときに 役に立つよう
あらかじめ用意がなされているものであることに
気付いてください
頭のなかに何も残っていない
と 言うものは 言い訳でしか ないのです
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Thursday, June 18, 2009, 11:39
(2009.6.16 pm7:36受)
お役目果たして
ご苦労はん、だと
言うものが、むかえに来ておる
ダキニはん、やるだけのことは
やったから、もう、いいよ。
いらないものは、退場してくれたほうが、
よいのです
ひとは、それらのカミを
乗り越えるときが、必ず、
やって来るのです、
それが、新しき、世 として
あらかじめ予告がなされてきた
ものだからです
ひとの 本来あるべき 正しき意識が
その人間をキテイしてきたカミたるものを
乗り越えるとき、
それらの役割というものは、
終りを告げることになるのです
ひとりひとりの人間のなかに存在をする、
それぞれのカミスジというものが
違っていても、ルールは各々に、
同じかたちで告げられ、それらの
終焉を 見届けることに なります
ひとが、カミたるものの意識を
超えるとき、あなたがたの生きる道には
自由な選択権というものが
与えられます。
上昇するのも自由、落下するのも、自由、と
あらかじめ伝えられていることの意味を、
よく、お考えになってみてください
誰かの 何かの 指針を判断に
動くのではなく、自らが選び、判断し
行動を決める時期に、来ています。
手渡されている、あるいは、自らの意志で
手にした地図の意味は、もう
既に、知らされているはずです
追放されて、さよなら、なのではなくて
役割を果たしたものは、去るのが
正しいのです。
よく、頑張りましたね。お疲れさん、と
見送ってもらえることのほうが、
幸せだとは、思いませんか。
ひとは、それぞれに与えられた親神さんの
ワケミタマである存在から、
それを乗り越えるときが、必ず、訪れるのです
それは、その、人間存在が、誰の判断をも
あおがずに、ひとりで立つ、ということの意味を
示しています。
ひとは、本来そうやって、生き、成長を
し、続けるべき、生き物です。
それらの、お話が、実は、ひとりひとりの
人間が追体験をできる、ということが
記されているのが『最終知識』という書物です
それを必要としているひとと、全く必要としていないひとは、
まっぷたつに分かれ、
必要としている方々のもとには、
たとえ時間がかかったとしても、
それらの知識を受け取ることが可能なように、
きちんと、用意がなされている。
それが、ほんらいの正しき『契約』と、いうもの。
契約は、契約とは、履行がなされるために
存在をしているもの、だからです。
あなたが、
あなたが あなたをキテイしている親神
というものを 乗り超えることが、できた時、
あなたという人間存在の、あたらしい
継(つ)ぎの世は、本来用意が、
なされているのです。
お伝えをするべきことは、既に、お伝えをしました。
すべての人間、には、選択権というものが
用意なされています。 じぶん以外の
何ものかを崇(あが)めることなく、自ら自身が
正しき、ひと柱として、その生を生き抜くために、
その、指針となるべく用意がなされたものが
何なのかを、あなたがたは、
知るものです
準備は整(ととの)い、用意は、出来ましたか、
ときは動き、あたらしき、あたらしき時代
というものが、その御(み)姿を、顕すときが、
もう、訪れかけて、いるのです
自らの指針が、ぐらつかないよう、自ら自身で
それを確認をし続ける必要があることを
常に、アタマの中に、頭の中に、
認識を、し続けていて、ください。
時期は 予(あらかじ)め 用意がなされ、
その予定通りに、物質世界、現実世界へと
映(写)し出されているに、過ぎません
その、背後にある、はたらきかけに、
気付くことが出来たものは、つぎ(次、継ぎ)の
行動に移すことが、可能なのです。
恐れ、おののく時間や暇があるのなら、
足を前へと進めてみては いただけませんでしょうか、
動く、ときが、訪れたようです
それらの 知らせと、信号は、
キャッチしておいて、下さい。
そろそろ、時期が、近づきかけた、ようなのです。
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Monday, June 15, 2009, 13:30
(2009.6.15 am9:00受)
欲望の危機状態が
もたらす作用
おカネであり権力であり性であり
手に入れたくも 手に入らないものを
現実のものにかえようとするはたらきが
脳のなかでつくられ続ける
ある種のコダイモウソウ(誇大妄想)と呼ばれているものが、
それらの脳のなかで拡大再生産を続けることで、
それを現実化させようとする作用が
頭のなかで生まれる
にんげんのつくり出した おもいのエネルギーを
現実化させようとするはたらき、
あるいは、人的能力、というもの
拡大再生産をされた、それらの脳のなかで
つくられ続けた お話は、
それらをより現実に近しいものへと
発展をさせようとする相互作用がはたらき、
それらが脳内で構築がなされるお話である限り、
どのような内容のものでも 頭の中では
手に入る、という、いわばバーチャル
リアリティ的な 効果や作用というものが
その意識領域内で 発生し続けることになる、
より、具現化し、より、リアリティを持たすため、
それらは細部に到るまで
きめ細やかな描写を伴なうものとして
いともたやすく その人間の脳内で
つむぎ出されて構築をし続けることになる、
もし お金が 有ったなら、こういった事を
現実のものとすることが 可能になるに違いない、
という、ある種の夢物語のような、お話は、
それらの欲望のレベルによりけりだが、
その人間の脳内で
それらを実現化させようというはたらきが生まれ、
それらが、より可能な
手の届きやすいものであるに違いない
という思い込みから、話は、つむがれ続けてゆくことになる
それらの、おもいの現実化、というものが、
どの目的や方向性を持っているのかによって、
現実世界での物質存在として
もたらされるものが 何なのかを、
キテイすることになる
おカネであり 権力であり 性であり
どれもが人間の欲望と直結して存在をする
願望の類(たぐい)である、 具体的に、それらを
手に入れる為には どういった手段をふまえて、
どのようにはたらき動くのかを 現実的に、かつ
論(倫)理的に思考をするのではなく、
おもいのちから、エネルギーにより、それらの
実現化を達遂(成?)させようとはたらきかけるものが
その人間存在のなかに閉ざされていることに
気付くものは少ない、つまり、一建の家屋を
構築するために、基礎工事から初めて、
どういった建材を どのように取り扱うか、
建築物が構築されてから、その後は
どのように耐久性を維持させることが
出来るか等、ひとつひとつの項目をつくり上げてゆく
シミュレートを、行なうという時間と手間のかかる
作業を、怠(おこた)り、思いのちからで、
手に入れたいと より強く願うものを
現実の世界で手にする為に、にんげん、という種の
生き物は、いとも簡単に、それらのおもいの
エネルギーを、拡大総生産する為に、
その脳(能?)力を、活用させようとすることに
意識を向ける、それが魔力、であり
それらのちからを行使することを し向けるものが
悪魔である、自らが渦中のなかにいるものは
それらの作用に、自らがつかわれていることに
全く気付くことはない
台風の目のなかにいると、周囲にどのようなことが
起きているのかが、わからない、ということである、
その目を中心に台風という存在そのものは
構築がなされているのに、それらの事実を
客観点(的?)に外から眺め見る、ということを
その当事者が見ようとしない限り
自らの置かれている状況が どのようなもの
なのかを、知るよしはない
自らの小宇宙を、外から客観的に見る、という
習慣を持たない限り、人間という種のものは
その自らのつくり出した小宇宙のなかに、
とらわれ続けることになる、
その小宇宙の中心点につながれたまま
落ちてゆくのも、自由
あるいは、自らが、そのくびきを外し
現実の世界を直視しながら 前向きに努力をし
正しくはたらくのも、自由
どの選択をするのかは、ひとりひとりの にんげん存在に
ゆだねられ、時間の経過とともに
その時、その時の当事者の選択とともに
物語は進行を してゆく
おのおのの人間に、それらの判断はゆだねられ
耳のあるものは 聞きなさい、ということばのたとえ通りに
この現実世界のうつし世として、実際に
映し出されているものに過ぎない、
それが、物語宇宙なのであり、
ひとりひとりの人間がミクロコスモスと
言われる ゆえんである、
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Thursday, June 11, 2009, 11:55
(2009.6.10 am8:20受)
神界が消却をされたように
生きた人間により近い層の神仙界
というものも 消滅させられた
なぜならば 人間が 自らの外部に
そういった層があること を 想定することにより
自ら自身の中にある古き神を乗り越え
新しい時代とともに生き歩むということ
は不可能に近い
自らが ある存在の意思により、その生を
まっとうして生き抜くという単純な真理に
気付かない限り 盲目の羊であるという選択を
選び続けることを 自らの選択決定とするものが
あまりに大多数を占拠しているため
目には見えない何らかの対象(物)に
いのり願い続けることで
自らの希望する結果を求め続けるものが
あまりに多く それが重大な罪であるという
認識すら 持ち得ない人間が この世
このちにおいては そのほとんどの割合を占める
それが、罪であるという認識すら 持ち得ることが
出来ないから 永遠に その おこないを繰り返す
ことに やっきに なる
不平等な はずがない 平等なのだろうという
異議申し立てのような言い分は、そのおもい
自体が うらみねたみそねみに 変化(げ)している
ということに 気付きすら しない
そこには 当然のことながら
自分自身の その おもいのエネルギーを
放出し続けている という事実は
当人にとっては 見えないもの あるいは
そんなことを自分が しているわけは ない、
という 自己正当化を肯定する 言い分
というものが、どっかりと 根を下ろしている
たとえ それを 第三者のものに指摘が
なされたとしても、その自らのおこない、
目には視覚できない行為が 自らの認識外
のものであるから、自分のものではない、という
本人にとっては当然のごとき理屈と言い訳が存在している
つまり、“わたしは何もしていない”、
と、言いたいわけである。
すでに学びを終えたはずのものが
このような意識を持ち、その消化不良の
ような、おもいを抱き続けることで
通常の、それらの知識を持たない人間に比べ
より大きなちからを発揮し、対象物へと
向けられ続けることになる、
目覚めなさい、といい続けていることの先にある
本来の正しき解答を、こころの奥底では、見たくは
ないという意識が存在をしている限り、
目をそらさずに真実に向き合い、その改善策を考え
乗り越えてゆこうという意志などは、生まれようがない
こころの奥深く、底の底のほうで、実はそれらの
事実を知るものがいて、それを直視したくは
ないから、もっともらしき言い訳を つむぎ出し
排出をし続けようとする、ある種の
言い訳増幅装置のようなものが、その人間の
内部に設置をされている、それが、黒い暗黒の芯の
中心点にあり、それを焼き捨てるという措置を
することもなく、暗黒のおもいのつむぎ出し装置
として その人間のなかに置かれているという事実に
当然のことながら 当の人間は気付きもしない、
つまり、自らの求めているものが何なのかを、
わかっていない、のだ
それらは2000年も前に、既にイエスが伝えて
いることに過ぎない、
“あなたがたは自らが求めているものが 何なのか
わからない”
イエスの飲んだ杯は 歓喜の美酒ではなく
毒杯だからである
願い求めた目的が違う、ということは
それぞれの人間が思い描いた、自らの希望
する世界観の宇宙への道のりを歩むということを
お伝えしなければならないのです
自らの意思決定と正しき方向性への道のりを
歩むことのできないものは、自らの希望する世界での
生存を続けることになるのです
よくよく お考えになってみて下さい
こころのなかの おもい と 口から 発せられる
ことばと 自らの実際に とった おこないは
全て その たましいに 刻まれ続けているのです
生きて活動をしている人間のエネルギーが
どれほどまでに強力であり それらが使い方によっては
どれほどまでに 影響を与えるのかを
あなた方には 既に お伝えをし
そして 実際に 学んだはずのものです
知るということは 担うということであり
その、ルールは 厳然たるものとして
既に置かれています
自ら自身を変えるのは 自ら自身の意志でしか
ありません
それが 自身をみがき 研磨するということです
自らのたましいが、にごりくもっていると、
そこには何も映し出されないのです
ご理解をして いただけましたでしょうか
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Tuesday, June 9, 2009, 12:38
(2009.6.9 am7:45受)
たにんを ねたみ
呪うもの それが
あなたのうちに
あるかぎり
はたらくものとなることは
ありません
あなたのなかにある
その古き神の意識を
乗り越えないかぎり
目覚めて 世のために
はたらくということは
ないのです
無意識を 通り越して
内なる意識の 意識下で
自らの正当性を主張し
異議申し立てのようなことを
おこなうものが いる
それを それは自ら自身の
ものでは ない という
主張を し続ける限り
目的としている その場に到達することは
ありません
悔い改めて 自ら自身が
変わろうとしないものは
そうやって 自ら自身の
おこないに 気付くことなく
とり残されることに
なるのです
のどから 手が出るほど
手に入れたいと 思うもの とは
何なのですか
たにんを あやつる 能力
ですか それとも
自分の願った通りに
物事が うごかせる
ちから ですか
ち のものは
そうやって あさはかな
ちからを 手に入れるために
やっきに なり
そのために 自らを ささげ
いけにえの 羊
という 立場に置くことで
自らの保身 というものを
保つことに ちからを
そそいで きたのです
いつくしみ 相手の 苦難を
受け入れることを
選ぶもの
そのものたちは
自らの 道の あかるきこと
決して たがわない ということを
知るものです
たとえ その身に その苦難が
移ろうとも
正しき その生の あり方 というものが
何なのかを 知り
自らが 体現(顕?)することを
いとわない 者たち
だから です
勘違いや 思い違いを
しないよう
気を付けていて ください
して あげた
やって あげた という
おもいが
あなたのなかに ある限り
それらは 傲慢 という
ことばで ひゆ される もの
として
あなたの 存在の なかに
置かれます
その主張を するものが
一体 何なのかを
よく よく 考えて みて下さい
古き 神々は ひとのなかに
降ろされて
あなた方の意識のなかで
ある種の はたらきかけをするものとして
存在を しています
それを 知り 乗り越えない限り
次の 道へと 続く 扉を
開くことは できないのです
自ら自身に 思い当たることが
おありになる 方々には
はげしい 拒絶反応 が
もたらされる 可能性が
あるのです
その 自分は 悪くはない
という主張を し続けるものが
一体 何なのかを
よく よく お考えになって
みてください
その意識を 乗り越えないと
つぎの 道は 用意が なされて
いないのです
助くるもの は 自分です
それとは 別に
自ら自身を おとしめるのも
自分です
この法則が
なぜ 理解が なされないのでしょうか
外部の何らかのもののせいに
し続ける限り
目は、見えない状況にあるということを
知っておいてください
周囲の状況に 気をとられている間に
どんどん 自ら自身の 目指す道は
見えなくなって ゆきます
準備をしておく といい続けている
ことの 意味を 理解しておかないと
核心部分の重要な 真実に
いつまでたっても 気付くことなく
残りの余世を 過ごすことに なるのです
認識能力 というものは
アンテナ のようなものです
そのもの自身が みがかれて 研磨をされている
状況でなければ
重要な情報を キャッチすることは 不可能です
自ら自身を かえり見て 改善をしてゆく
努力を おこたるものには
届きようが ないのです
ご理解をして いただけましたでしょうか
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