ひつく文書-08年11月23日-3 
Monday, November 24, 2008, 16:07
(2008.11.23 pm6:30受)

聞く耳を持たぬものには
とうてい 到達は
できんぞよ
何をもって
その生を
まっとう したいのかを
よく 自分自身で
考えることじゃ
すくなくとも
足を踏み外し
道を外した 魔術師に
ならぬことを
祈るのみ じゃ
一体 どんな 能力を求めて
入って きなさったのか
恐らく 自身では
見えては おらんじゃろうな
魔術師 魔術師
つかいたい チカラ とは
魔術 そのもの
だから じゃ
おおよそ かけ離れた
本来の 示唆 している 道とは
かけ離れた
なんぞの 特殊能力 を
求めて 入って
きなさった
有難 迷惑な ハナシ
じゃが
自身が それと
気付くまで
何も 見えては こんじゃろ な
宗教的な
その チカラ
手に入れて 一体
何を したいのか
じぶんの脳の 中心に
尋ねて みては
いかが かな
は虫類の その根っこ
しっぽというても
よいのじゃが
一体 何の 目的に
利用を しようと してるのか
聞くが よし
聞くが よし
求めるものが 何なのか
しっぽの 根っこに
聞くが よし
恥ずかしげもなく
のこのこ と
あらわれ来ては
のうのう と
なんぞの 能力開発を
してくれるとでも
思うたか
恥を知れ
恥を知れ
一体何の目的に
そんな チカラ を
使いたい
たにんに影響及ぼして
相手を 操る 能力を
手にする ことが
できる こと
それを 期待を してるなら
お役目 果たしに
縁は 無い。
怒りの 炎に 焼きつくされて
一から 出なおし
する ことじゃ
何を望んで 来たのか を
じぶんの 胸に
聞くが ヨシ
明るい未来は
来るのか のう
とても そうとは 思えんが
恐らく 今世じゃ
無理じゃろ な
目的 違(ちご)うた そのチカラ
残念ながら
さずからぬ
なぜなら そなたの
根幹に
やみのちからが
宿っとる
正しく ひととして はたらく
という 意味を
どうやら
はき違えて おるからじゃ
そなたが 喉から 手が出るほど
欲しくて たまらないものは
魔界の手先が 利用する
やみのチカラ と
言うておく
そなたの 心は つつ抜けで
丸見えだとも
言うて おく
しつこいようじゃが
言うておく
目的を はき違えた者には
一切 何の能力も
さずけられは せんじゃろう
自分の欲望達成し
何か そんなに 楽しいか
それが 魔界の チカラ じゃと
知らせは 済んで おるはずじゃ
身の程 知らずの 言うことは
誰の耳にも届かぬぞ
1(イチ)から、0(ゼロ)から、出直し じゃ
一体何を求めては
関与をしてきた ものなのか
開いた クチ(口)は
ふさがらぬ
あきれて モノも
言えんぞよ
とうてい 無駄な ことだとは
思うていたが
ここまでに
ひどいものとは
話に ならぬ
無駄じゃ 無駄 無駄
時間の 無駄じゃ
引き止められて
足止めを 食ろうている 暇
無いのじゃよ
じぶんの 足で 歩かぬものは
置いて ゆかれて
仕方ない
じぶん自身の 救世主
それは じぶんと 言うておる
学んで 歩く その あしは
そなたの あし と 言うておく
目を覚ますのが 遅すぎて
慌てて 騒いでみたとこで
誰も助けてくれんぞよ
じぶんの意志で 決定し
じぶんの 足 で 歩くこと
打診は してみて ヨイじゃろう
打診の もとは 考えよ
考えて 考えて 考え続けて
考えあぐねた 結果
相談するのは
よきことじゃ
何も考えないで
結果だけを 求めても
それには こたえようが無いことぐらい
当たり前のことだと
思わんか
方法論や 選択肢を
自らの アタマ で考えて
ピックアップも せん者に
返答の しようも無いことぐらい
何で理解を せんのじゃろ
はたらかざるもの
食うべからず と
教えてもろうた はずじゃがの
お手々を出して
ちょうだい と
言うても やれんことぐらい
どうして理解を せんじゃろか
進むものは 進んでも
進めんものは 置き去りに
自分の意志で 歩まぬものに
かける時間は
ないから じゃ
かつての 地球の 宗教と
違(ちご)うているのは
そこなのじゃ
正しき 意志を あらわして
はたらくものは
じぶん です
じぶんが はたらく
そのために
学んでいるのでは
ないのですか
上からの指示 指令に つき従って
言われる通りに動くのは
支配と統治を なされたままの
宗教という姿でしか
ないのです
一体 いつになったら
認識をして くれるのじゃろうな


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通信-08年11月23日-2 
Sunday, November 23, 2008, 16:19
(2008.11.23 pm2:51受)

さがしつづけた そのけっか
たどり着いたは
さいごの 扉
あおき みち は
しろき みち の
じゅんび と ようい
なり
その ようい なり
あしがかりと なるに
ふさわしい
そのじゅんびと
ようい なり
みちくさ くって いたものと
思うていては
なりません
じんせいに おいて
むだなもの など
何ひとつ 無いからです
じゅんび と ようい の
その意味を
知るときが
必ず おとずれます
それらは あとから
わかるもの
ひとりひとりの 意識下で
それらは 理解されるもの
地獄のような 苦しみ も
何かの 用意と
知るの です
じぶんは これを するために
それらの 道を
選んだ と
いつか 気が付く日が 来ます
それらは すべて
おべんきょう
もんだい解決するための
おべんきょう でしか
ないのです
あたえられた 宿題は
あなたが この世で
それらを学び
克服して 乗り越えてゆく
ための もの でしか
ありません
ただしく 自らの目的意識を もち
前を見すえて 対処をしてゆくことを
携えているならば
自らの 成すべき 役割というものは
かならず 見えて くるはず です
そこに 不安や恐れ というものは
ありますか
ありませんか
自分ばかりが 被害者で
自分は 悪くはないと
思い続けている限り
目の前に見えているはずの
正しき 道 というものは
見えません
どこへ向かって歩けばよいのかさえ
わからなくなります
怒りや憤慨を したままで
正しき 解決法は
見つかりますか
見つかりませんか
即座に こたえを 出さないで
冷静に 事態を客観的に
見る習慣をつけないと
いつまでたっても
思いや感情論で 自己判断を
下すものとして
存在することになる
そこには 自らの 正当性を
主張する
ひとりよがりな ひとりの人間
という こたえしか
出てきません
そのために
自分の小さな世界から 出て
離れた上方から
物事を見つめ直す必要が
あるのです
どうすることが ひととしての
正しき 解決法なのか
上に昇って 考えなさい
自らの 意識の上層で
考えなさい
というのは
そういう ことです
そこでは 自らの 私利 私欲
といったものは
みじんも 存在していない筈です


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通信-08年11月23日-1 
Sunday, November 23, 2008, 16:18
(2008.11.23 pm1:57受)

いと おかし
あな うまし
みこころの
てん(ゝ)なる を
はいだわけ
かんざ わけ
わけ つちて
つち おさめ
ものものよ
よこたへる
いと
をかしきは
くものいと
いと いと の
おさむるは
こうこうと
よじ のぼり
しかるべき
みこころの
いとをくみ
くみ ちがへ
いく いくは
よじのぼり
よこたへし
みの おきよう を
はるかなる
あしおとの
きこへ に
みみを すまし
かん ながら
いとの こを
すがし
あしかけ
よじのぼり
きかしめし
ひとのよに
とうとうと
ながるる
そのよの
さだめ
もつときを
さがしては
あしかけ
よにきく
さだめの
もとひ
くるすにて
おはりをつげる
そのよの
もの がたり
つる の なく
いっせいを
あげた
おはりし
さだめ
とうとうと
ながれ
とうとうと
おつる
みづのごとき
えにし
なるもの
よび あつめ
たまひ
その おはりと
はじまりを
つげ たまひ
きかしめし
つぎ(継?)のよの
ありかた
その みちの
あり かた
とおからず
みちびき
たまひ
ひとのよの
はるかなる
あしをとを
きかしめ
たまひ
みち みちなるを
みちなる を
いくたび もの
あら そひ
いくたび もの
おはり と はぢまり
いくたびもの
みのり と こかつ
いくたび もの
はんえい と
すいたい
いくたびもの
しるし と
おはり
いくたびもの
あしおと と
あしあと
いくたびもの
さだめなる
ゆふき
いくたびもの
とほとき
いのち
いくたびもの
よろこび と
かなしみ
いくたび もの
いかり と
にくしみ
ひと なるを
ひと なるを
ひ と なるを
ひ と なるを
ひとのいのちの
かえがたき
代償なるを
あらそひ も
にくしみ も
さだめなり
さだめ なり
おはらせる
ため
つかはされた
その
み と なりを
いかように
つかひ たまひて
その い(意?)を
なする
足どりと
あしあと
いかように
つかひ のこすもの と
なるのか を
みづからの
意志 と ともに
きめ たまひ
きめ たまひ
ものの じゅみょうは
数十年
あたへられたる
その み を
つかひ
のこする ものとは
何もの を


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ひつく文書-08年11月17日  
Monday, November 17, 2008, 17:31
(2008.11.17 pm4:33受)

ご報告
とりまいた環境の悪さに加えて
みずからの 招いた
招かざる客
さっさと カタを つけないと
余計なもんを 引きつ(継?)ぐ と
誰かが 判断したのじゃろう
見ばえの 良さとは タテマエで
おのれの招いた 原因と
その 結果の 処理をして
おかないと
つぎ(継?次?)の代へと 持ち越すと
ハッキリ 気付いて いたからじゃ
引継ぎ 守るべきものは
それが 何かを 知ったから
片付け せきにん
うけおいた
気が気で ない
じぶんで まねいた こと
だと しても
気が 気で ない
うすら寒さを 抱えたままで
この世を去ること
できないからじゃ
持ったまま 抱えたままの
その ものたちの 処理方法
しかるべき ひと が
やるべき やるべき
よごれは きれいに ぬぐい去り
そのち を きれいに してから
去るのです
おそうじを するのは
しかるべき ひと
しかるべき にんげん
きれいに 片付け 済んだなら
その場の 浄化は
済んだ こと
よごれ まみれて いるばしょは
片付け おそうじ
あな うれし
うれし うれしの この世と なりに
感謝 感激 あな うれし

ろくでもないもの
拾(ひろ)てきて
まいた タネ は 刈り取りを
じぶんで じぶんの 責任を
負うのは 義務と いうもんじゃ
つけた 足あと
くろ か しろ
それが 判断 されるの じゃ
せめて じぶんの おそうじは
じぶんじしんで するものと
ようやく 気付いて くれたかの
それが できたら ひとのぶん
持てるだけしか
入ってこん
持てる ひとには しょわされて
持てない ひとには ちょっとだけ
ピラミッドの 上下の ぎゃくは
誰が せおうて おるのかの

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通信-08年11月10日 
Tuesday, November 11, 2008, 13:53
(2008.11.10 pm0:50受)

ホサとは
ササエル 役わりです
しじされた 通りに
つきしたがって
従う のでは ありません
下で 支える ものでなければ
役割は まっとう
できない からです
ひとの うごきを 見ながら
何が 必要 な ことで
どう 判断を し
動くのかを
見定めて 行動を
起こす ことが
求められます
なんども 繰り返し
お伝え している ことなのですが
正しく 物事を 考え
判断をし
行動を する 為に
浄化と 上昇が
用意を なされて います
不安や おそれ
といったものが
頭を もたげて あらわれてくると
冷静な判断力というものが
ソガイされることに なります
慌てず 焦らず
すこしの時間においてでも
常に じぶんが
ひかりに つながっているもので
あることを
意識 し続けること
です
おそれや 恐怖 というものは、
倍へ倍へと 増幅し
あたかも
それが 全てであるかのような
意識の状態へと
変化をしてゆきます
お伝えをしているように
今の 世 では
ひとの出す
闇の エネルギー というものは
増幅を し続けて います
それらは
経済の 仕組と 結びつき
今までより より大きな
ひとの無意識下での
恐怖 というものを
あおり続けて いるのです
じぶんにとっての重要なものの
位置づけ というものが
明確に できて いないと
自らが この世で 生きてゆく上での
こころの より(拠)所
あるいは しじく(支軸?視軸?)
となるものが 何なのかが
わからなく なります
自らが めざすもの とは
何なのか
あるいは 向かおうとしている
方向性というものが
何なのかを
自ら自身が 把握しておく
必要が あるのです
見たことも なく
聞いた ことも ない
その 知識 というものは
受け入れることのできる人間と
できない人間 とに
ハッキリ わかれます
その中間 というものは
存在 していません
残念ながら その比率は
半々 では ないのです
何故なら ひとというものは
自ら 自身が 築いてきたと
信じたがっている ワク組みや
概念といったものから
はずれて 一歩前へ出る
ということを 望まない者が
多いから なのです
つまり 新しい ひとの かたちの
あり方を 選択しようとする人が
極端に少ない ということを
意味しているから なのです
居心地のよい 快適な世界が
好きなひとにとっては
受け入れ難い ことなのかも しれません
厳然とした ルールにおいて
用意が なされているのが
審判というシステム です
自らの行動や言動というものは
当然のこととして
こころの中の思い そのもの までもが
あらわにされるのです
その ルール というものは
すべての 人間に 適応されるのです
当然のことながら
言い逃れや 言い訳というものは
通用しない
事実は 事実として 正しく記録が
なされているからです
正しく ひととして
生き抜いた ものであるのなら
そのシステムとルールを
望み求めるものであるはずです
たにんと じぶんを
比べる必要など
どこにも存在していない
筈だとは 思いませんか
じぶん ひとりで その審判の場へと
立って 堂々と その
しんい を 問う 勇気が
有るのか 無いのか
その こたえは
あなた自身が 既に
知っている筈 だとは
思いませんか

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