Monday, September 24, 2007, 00:03
(2007.9.22 pm7:30受)
たまぐしの さから(ん)
みえぬ ちからの
おん たま
とれぬ とりえぬ
はいごの なさけ
もの もうし
ねが はくは
うえつ ふみ
み たもふな
くりのみち
み まごうた ものたち
あらす ちからの はたらき
に より へいがいを
なす ものとして
くんりん す
なす みちの ありかたを
けちらし たまひて
そんとくの
おわりなき
じゅんかんのわに
とざされる ことを
のぞむが ごとく
かきかえの データづくりに
いそしむ ばかりなり
みずからの よき
はからいのため に
いき
しなさだめを
するがごとく
より いごこちの よき ばに
みを おくことを
えらぶ もの
うずをまくがごとく
きゅういんされ
じゅんかんの わの なかに
みを おくことを
えらぶ もの
きこえて いるとは
おもえぬが
もはや でぐちを
さがす てだては なく
てばなした いしのはたらき
の その いみをも
しることは ない
あらそいの その
かいけつ する てだて
すら みつける いし
すら さがしだす
きりょくさへも
もつことの ない
ほうきし むきりょくに
そのエネルギーの しょうめつを
のぞむ ばかりの もの
はずかしげもなく
あらはれては
みずからの しょぐうを とい
とどの つまりは
その みちすじの
いみさへも
しるよしも なひ
うごかし みちを きりひらく
そのいみの なす ところ
さえ てに することは
なひ
はずかしくも その
そんざい たるほ
まがなひの いみに
とらへ
さりゆくものの
いみさへも
しるよしは なひ
あらそひを このむものは
ば ほ(を) みだし
あたりに ほうしゃする
エネルギーの じつじょうを
しるよしも なひ
むいみな までの
ぎそんしん
たたかふ もの とは
たにん ほ つぶすこと
では ない
うらみ ねたんだ
その かえりち を
あびた もの には
わかる まひ
じゅんかんの わを
とじる ために
はたらく もの とは
もらひ うけおひた
あんこくの もとたるを
みずからの
りかいと ともに うけいれ
その おせんげんを
べつの ものに
ひきつがせない
こと
まわりに まいた
ぐちや いいわけは
そのたの ひとを
おせん する
うけいれ なっとくし
かいけつを するために
みずからが そんざい
しているということを
りかいしなければ
あなたの つみは
おは(わ)らない
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Sunday, September 23, 2007, 21:31
(2007.9.2 pm8)
ときうみ みちたるは
はなれがたしは
はんみの なれに
ともにいき
いきし みのはて
きり
ちりぢりに
ともなるかたわれ
おいし みの
みのわ なきもの
さざりし さりし
くまのみのゆえ
おはりし はたり
みのゆへ さまよひ
ありしひは ともに
うけおひ やくめは
もろともに
いまなりうる ものにも
ともどもに
しいて しきゆく
はなうる ものは
うぬる ときへは
きさき ともへの
さきざきに
くぐつの もとへと
つきし もの
みゆる ものをみ
うる うつ ものは
うち うつ
つくし みのゆへ
かがりの みよに
みよに いきる み
つゆきく つしく
うるもの ともふる
かんざし きくし
うるみの はてなり
ゆえともに
おいし みのなり
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Wednesday, September 12, 2007, 20:57
(2006.8.23 pm11:〜受)
それぞれのワークフローに対するシミュレーション
それらの境界的な曖昧さを、
どれだけ整理、取捨選択出来るのか。
正しき情報整理をきちんとなし得ることが出来るのであれば、
人間の“可能性”というものに対する
先見の余地は有るといえるであろう。
先ほど、述べ伝えた「境界的な曖昧さ」について、
現時点で、あなたがこれらの情報を書き出しているように、
外部から届けられている情報であるということを認識、
判断し、書き記して残しておくべきものである、
という決定、判断が出来るのは何故なのか。
明らかに、今、頭の中に届いていることばが、
自らの頭の中にもともと存在しているものではない
という認識が、出来ているからなのではないのか。
その、いわゆる受信機能のようなもの、と、
その受信を感知出来るセンサーのようなもの、
あるいは同時に、リアルタイムに着信を感知し、
出力するべきものであるという
判断をなし得ることが出来る機能、
それらの一連の行程の開始と終了の認識能力
目の前に大量のゴミが置かれていたならば、
それらを掃除し、片付けないと、前へは進めない。
様々な障壁のような事態、事例は、
必ず用意され、目の前に置かれる。
それらを回避し、まわり道をするのは勝手だが、
やり残した宿題のように、片付けない限り、存在し続ける。
人間同士が知り合い、つながり関わり合いを持つと、
必ず、その関係の中には不燃ゴミのような結果物がつくられる。
燃やすことも出来ず、処理することも出来ないものとして残された、
その事実は、記録として記憶の中に残され、
忘れ去ることも消し去ることも出来ないまま、
その人間の回路に残される。
目、耳に入って来た情報、口から出力した情報、
からだの感覚としての記憶として、それらは刻み付けられる。
記憶としては忘れたつもりでも、
からだの記憶が覚えている、ということである。
それらの情報は自らが認知し、受け入れ、
正しく処理をしない限り、データとして存続する。
あたかも、普通の人間には、これらの機能は、
はたらかないものという自己判断がなされ、
自らとは無関係のものであるという受け取られ方しか、
されていない。
正しく開発される方法、手段が用意されていなかったからである。
各種、怪しげなセミナーや、宗教的技法によってしか、
それらの能力開発は、なされていなかったからである。
ある意味、うさん臭く、一歩間違えれば、
洗脳でもされてしまうのではないかという疑念を抱くからである。
何のために、その能力を利用するのかという
出発点が全く違うからである。
自分が思い願ったとおりに物事が動くために、
あるいは自らの私利私欲の為に利用することしか、
頭の中に、ないからだ。
例えば、その能力を使って、誰かのため、あるいは何か、
自分とは関係のないもののために役立てることを目的とするならば、
通常では感知することの出来ない、ある種の情報を読み取り、
出力し、伝達するという行為によって
問題解決への糸口を見つけることが可能なはずである。
いくつもの次元があり、時空が存在する時間的経過の中で、
残されている情報が置かれている場へ、
意識を移行する、ということ。
それらは過去のものであるかもしれないし、
あるいは未来のものであるかもしれない。
複数の情報が折り重なるように散在している可能性もある。
だから注意深く意識を対象物に向けることが必要になってくる。
情報のやりとりは、絶えずおこなわれ、
それらが進化の加速を助長(増長?)し、
意識のはたらきの回転数を、
さらに加速させようとする働きが生まれる。
努力をして前へ進もうとする意志のはたらきがなされない限り、
稼働するものではない。
空に向かって口を開けて何かを待っているのと同じことである。
本来ならば、自らが、したおこないに対して、
結果というものは与えられるものである。
多くの人間は結果としての報酬を得るために
物事を遂行させようとする。
それらは金銭などの物品であったり、満足感であったりする。
要するに、目的となるものを手に入れる為に、
労をなすのである。
金銭を手に入れる為の、手段としての労務、
という判断基準のもとに日々働いているのである。
要は自らの安定した平穏な生活を維持するために
働いているといってもよい。
目的がはじめから全く違うのである。
どうすれば、未来は良くなると思うのか、
どうすれば、今問題となっていることがらを
改善することが出来るのか。
それを考え、行動をおこすということ。
そのために、自らが努力をし、さまざまな労を費やした結果を、
あとから受け取るという本来のルールと、
根本的に違うのである。
人間は、逆境や、苦境な状況に向き合わされた時、
あるいは困難な状態に陥った時、必ず試される、
という現実が待っている。
要は回避して、見て見ぬフリをするのか、
あるいは目の前に立ちはだかるガケのような岩山によじ登り、
苦しみにあえぎながらも、
それを乗り越えてゆこうとする意志を持つのか、持たないのか、
それを決めるのは、ほかならぬ自分自身でしかないのである。
出口の見えない暗い淵に放り込まれたと思い込んでいるものは、
自らが、そこから一歩も動こうとせず、
じっとしているからである。
よくも悪くも人間は、可能な限り楽をして
結果だけを手にいれようとする手段を選択しようとする。
それらのこころの動きやはたらきは、
全てたましいというメモリーに、刻まれることになる。
それがルールだからである。
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Thursday, September 6, 2007, 12:28
(2007.8.30 pm5:23受)
そなたが その地に
すむ ゆえん
アワのナルトの はたらきと
フジの やまとの かんけいを
おそらく しっておるからじゃ
耳 かっぽじって よく聞くのじゃ
相互のはたらきが あり
はじめて均衡というものは
はたらくように
できている
はかられ 盛られた
さじ加減というものは
右の針と 左の針が
おなじ分量だけ ふれるように
できている
相互に引っ張り合うように
その力は 均衡している
そなたの その 見え透いた
ウソが 抑制をかけて
いるということに
まだ 気付いて おらんのか
おそらく 手っ取り早い カタチで
何らかの チカラを得たいと
思うたから 参加をしてきたのでは
ないのか
違わんか そうでは ないかと
言い切れるのか
囲いたものを はがすには
それ相応の 努力というもんが
必要と いうことぐらい
わからんか
自らの手で 努力を
することじゃ
ヘンな お願いモノは
捨てることじゃな
右に引っ張ったゴムは
引っ張った分量と同じだけ
左にはね返る
それが均衡のハタラキ
というもの
自らが 光のものとして
ハタラキ たいのなら
同じ分量だけの 闇を知れ
それが 正しいルールと
いうもんじゃ
アとワは 天と地じゃ
ナルトとフジの
関係ぐらい
そなたは 知って
おるはずじゃ
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Wednesday, September 5, 2007, 16:36
(2006.8.17 pm2:08受)
南無阿弥陀仏のことばの意味を
知っているものがどれだけいるといえるのか
そのことばの意味さえも知らずに、
それを唱えさえしていれば解決できるものだという
完全なる思い違い。
貴き(尊き)ものに対し、
自らが帰依いたしますという本来の意味は忘れられ、
自らが助かるための手段としての使い方しか
していないのが今の現実。
本意はむなしくもしりぞけられ、
おとだまとしての効果があるものという前提により、
それは今も人間の口から発せられている。
くしくも、そこにおとだまとしての
発生(発声?)されるエネルギーに、
人間という存在を介在してつくり出される、
ある種の訴求効果(訴求力?波及効果?)があったため、
今の世に到っても、それは絶大なる影響力を
及ぼせるものとして使われ続けている。
印を結び、呪をとなえるという行為によって
つくり上げられた異界との結界、
わたしが地図を示したのは、長い時間をかけて
人間がつくりあげてきた呪の結界が、山々の峰々に沿って、
はられてきたことをしらせるためである、
それらは、俗世界から離れたものたちにより、
強固な意志によって、つむぎ出されてきた。
暗く、木々の生い茂った山々の地中深くに、
それらは、差し込まれ、
釘の上に、更に釘を打ち込んでゆくように、
地中奥深くまで埋め込まれている。
いにしえの時代より、やまとの中心線には、
このような呪の結界が、はられてきた。
異界の門は開(あ)き、それらは出てくるであろう。
それらは霊界のものではなく、
魔のものである。
循環の環(わ)は閉じられた
奇しきもの、いまたちあらわれん
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