Friday, July 13, 2007, 21:06
(2007.7.13 pm4:50受)
うしろを向いては なりません
あなたが選んだ人生は
その他のひとより おもいのです
許容量や ポテンシャルというものが
大きければ 大きいほど
その人間に加えられる負荷というものは
大きなものに なります
ただし、その人間が耐えられる
分量分だけ、
与えられます
破壊し 潰してしまうために
かせられるものでは ない
ということに気付かないと
自らが被害者になったような
気分に陥ります
信頼しているものに裏切られたとしても
その対象となる人間をうらむのではなく
“何かを学ばせてもらったのだ”という
ことに気付かないと 相手に対しても
その感情を持つ自分自身に対しても
不愉快な思いを持ち続けることに
なります
そんなはずが、あるわけがない
という、あなたの常識は
相手にとっては、あてはまらない
ものなのでしょう
その ひとつひとつのことがらに対して
様々な人間的感情をはたらかせると
あなた自身が潰されることに
なります
同じ土俵で、たたかうな、と
言っている意味がわかっていないと
いつまでたっても、次のステージへの
段階を あがることは出来ません
相手の人間的思いや感情、欲望レベルの
エネルギーに操作をされないよう
常に心がけていてください
皆、自分自身が大事で、我が身を守る
ことが 生きる基本的要素として
大半を占めています
相手の欲望レベルのエネルギーに
汚染されると、あなた自身が
その闇のエネルギーを追体験することに
なります。
それらは、しつこくついてまわります
引っぱり込まれそうになったなら
正義とは何なのかを問い続けるように
しなさい
たとえ、相手が喜び、あなたが不遇な状況に
遭わされることになったとしても
その事実のみが 刻印されることに
なるからです
しくみを知らない人間は、自らが我慢し
他者が利を得るということは
はじめから選択するというつもりなど
ないからです
事実のみが刻まれるということを
忘れてはなりません 相手の人間が
たとえ無意識であったとしても
自らの欲望を満たすために何らかの
エネルギーを放出した、ということもです。
当然、その人間当人が責任を負わされ
負債を払わされることになる、ということもです。
正しく書き込みが なされていると
いうことを、自らの最も基本的な場に
固定をして おきなさい
その信念が揺らぐようでは
他者からの エネルギーの影響を
受け続けることになるということを
忘れないで いてください
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Monday, July 9, 2007, 15:59
(2007.6.24 pm3:30受)
かたちとしてあらわれたものを
たてまつる
それらが顕現であり
権現といわれるものの
正体である
目に見えたものとして
実際に人間の意識が
認識をした時
その理解不能な
ある種の存在を
人間は2種類のものに
ふりわけようとする
それが とてつもなく 偉大な
存在か
あるいは 害を与えるものなのか
それらの事実上 目に見えたと
認識された ある種の
エネルギー体としての存在が
人間の頭の中で様々な物語を
つくり出し 様々な空想や
想像というものによって
ストーリーというものは
つむぎ出される
空をかける 龍のようなものと
認識された その存在は
実際に人々が目にすることが
出来た 現象と呼べるもの
それを “神”というものに
見立て そうに違いないと
その位置づけをつくり出したのは
その当時の人間の認識可能な
範囲内での選択にすぎない
時空は一様ではない
天(あま)の鳥船や 空龍と呼ばれる
ものは 実際に空に浮かぶ
それらの認識可能な
可視現象が その時代
その場所で起きたに
すぎない
実体や正体が 一体何ものなのかの
判断のしようがない
飛行物体というものは
いつの どの時代にも存在している
現在の地球という星の科学における
分析能力というものが
それらの実体を解明出来ていないという
事実が存在しているにすぎない
分析出来ず解明出来ない
それらの現象が この地球上において
一体どれほどの物語や神話というものを
つくり出してきたのか
それらの関連性を示しているに
すぎないということに 気付かないと
意識を占領されたまま
とらわれたものとの自らの関連性
というものばかりに気をとられ
肝心の論理性というものを
基準に考えた ものの見方が
出来なくなっているということに
気付きませんか
ミイラ取りが ミイラになる
とは この状況を示しているのです
何らかの関連性が有ったから
気になる というのは当然のことです
ただ その とらわれた状態のまま
1歩たりとも 足を動かすことが
出来ていないという状況に
自らが気付かない限り
客観的に物事を分析するということが
出来ないことぐらい
もう わかっているはずです
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Thursday, June 21, 2007, 17:14
(2007.6.17 pm10受)
おかねを支払っているのだから
何かしらの見返りを受け取って
当然でしょう、という思いが
蔓延している
つらいことは背負いたくは
ないけれど
自らにとっての成功するチャンスは
欲しい、ということ
その結果を得るために
自分にとっては苦しく
つらく厳しい道を歩む
という実体験は、踏みたく
ないからである
いいところだけ取って、嫌いな
食べ物には、見向きもしないどころか
はじめから、無いものに
したいからである
きびしく、つらいその実体験を
乗り越えた先にしか
未来は用意されていないのに
そのことすらさえも、
はじめから 見たくは ないのである
今の時代の若者のほとんどが
努力や苦労というものに
はじめから かかわることもなく
成功だけを手に入れたいと
願っている。その願いをきき入れて
もらいたいがために
神社や仏閣にお願いをしに
行く、そこに、それが恥ずかしいこと
だという概念は存在していない
自分だけが楽をして富や成功を
得るために 祈りというものを
すりかえて、お願い事を、せっせと
植え付けに行っている
もともとは 聖なる地、といわれていた
場所が こうやって汚されて
ひとの思いに汚染をされているという
道理が わかりませんか
いつになったら人間は理解をするのか、
いつまで、あなたたちに
我慢しておられようか、ということばが
一体何を、訴えているのか
まだ、わかりませんか
にこにこと快適に、楽しいことだけを
見ながら 自分が成功するために
用意をされている人生だとでも
思っているのですか
わたしが しつこく、“時間が無い”と
言い続けている意味が、まだ
わかりませんか、
世に知らしめるべきことが一体何で
あるのかを、気付かない限り
目が覚めた、とは言えないのです
発信し続けていることばの意味を
自分にとっての都合のよい内容に
書き換えては いませんか
これを言ったら この人間は
ひしゃげてつぶれてしまったまま
立ち直れない敷居というものを
どれだけ低く下げて話をしているのか
どうやら、わかっては いないようですね
レベルの高い人間には
レベルの高い敷居を 設けます
低い人間には
それなりの レベルに合わせて
敷居を 設けます
ただ、それだけのことです
すこしでも 自分が成長し
次のレベルへ進もうという
意志のないものに
いつまでも つき合っているつもりは
ありません
わたし自身の時間が
無いからです
解決しなければならない
苦難を抱えながら
自分自身の為(な)すべきことに対して
必死になって努力をする
そのことに対してのみ
結果は、かたちとなり
あらわれ、かえってくることに
なります
厳しい言い方をするようですが
苦しく追いつめられた状況下の
なかででも、何かを生み出そうという
意志のないものに
用は ありません
これがあったから出来なかったのだ
ということばは、単にいい訳でしか
ないからです
石にかじりついてでもやろうという
意志があるのかないのか
何らかの要因で それを完遂することが
出来なかった時に
その理由を、足止めされたものの
せいにしてしまえば
自分自身の責任ではないという
言い逃れが出来ることを
知っているからです
自らのおこないや行動
口から発することばの
ひとつひとつに責任を持てるようになって
はじめて、大人になる
ということが出来るのです。
アタマの中が幼児のまま、年齢だけを
積み重ねた人間が、この国に
どれほど いるのか
その人間が 齢(よわい)を重ね、老人に
なった時、どのような事態が
待っているのか、想像できませんか
わがままで、何でも他人のせいにして
そのくせ 感情のコントロールがきかない
そんな老人が 大多数の割合を占める
このクニに
一体、何の希望が抱けると
いうのでしょう
これから生まれてくる子どもたちは
過酷です。はじめから その負債を
負わされて生まれてくるからです
多くの人間は、自分が死んだ後は
何も残りはしないと思っています。
生きて生活してきた間につくり上げた
負債は一体どうするつもりなのでしょう
それがイコール
自分さえよければ
それでいいではないか、という考えが
蔓延している世の中なのです
責任を取る、という概念が全く
確立していないのは
はなから責任を取るなどという
行為をしたくはないし
するつもりも ないからです
要するに、自分が満足して
死ねればよいと思っているからです
その満足、というものが
一生懸命努力をし 苦労を重ねながら
やっと成し得た満足なのか
自分が願い希望し、かなえられたら
いいなと思いながら得た満足なのか
その質というものが
根本的に異なる 別質のもので
あるということに
気付きませんか
どのような悲しい事態に陥ったとしても
放棄することなく、手放さないで
継続し続ける、ということ
どのような過酷な苦難を強いられることに
なったとしても、決して
それを あきらめないということ
世の人びとに認められ
賛称される作品というものは
そういった過程をふまえた結果
もたらされるものです
結果物をひとめ見れば
それがどのような経過ののちに
生み出されたものなのか
瞬時に判断できるとは
そういうことです
苦難とは その人間を地獄に
落とすために あるものではなく
それを乗り越えた先にあるものを
手にいれるために存在している
必然性のある
ワンセットのものです
あなたが それを成し得るために
費やした時間と苦労は
必ず結果となり 作品に
あらわれます
それが 正しい理屈というもの
です。
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Thursday, June 21, 2007, 17:13
(2007.6.17 pm3:15受)
聞いたはなしによると
能力のないものが
立ち入ると、影響を受け
その存在のかたちを乗っ取られて
しまうとか
安易な気持ちで興味を持ったばかりに
色々と余計な土産物をくっつけて
帰ってくることに
なります
処理する能力のないものが
安易にその場を訪れ興味を持つと
必ず その場に存在する
データを引き受け 負わされることに
なります。普通に生活をしている
ひとたちは そういったつながりを
持ちたいが為に、神社仏閣という
所に足を運びます
恩恵を授けて欲しいから です
自らに関係のないデータや
エネルギーまで
かき集めて背負い込み
そのあと、どうするつもり
なのでしょう
皆、自分にとっての都合のよい
ご利益というものを求めている
ようなのですが 残念ながら、
かつて存在をしていたデータというものは
はたすことの出来なかった“責任”という
ものが大半を占めた
巨大な負のデータでしか ありません
あなたが それを背負い、日常生活を
しながら、責任を果たしてゆけますか
興味を持ち、かかわる ということは
そういう結果を もたらします
多くのひと達が エネルギースポット
などとして紹介されている地場へと
足を運びます。自らが何らかの
エネルギーのようなものを感知し
得てみたいと思っているからです
そういった場に、一体何が腰をおろして
へばり着くように存在しているのか
わかりませんか
千とも、万ともいえる人間の
自分個人の思いや願いが
こびりついて集合し、巨大な
かたまりとなって いるだけです
ひとの思いや願い、というものは
たとえ、そこが本来の風土における
聖地であったとしても、
そこを汚染し けがれたものにすることが
たやすいぐらい、強力なエネルギーを
生み出す ものなのです
皆、有難がってその地を訪れ
更に自らの思いや願望を
植え付けて 帰ってゆくのです
そのしくみを 社の宮司というものは
知らずに、自らが、その大いなる
エネルギーを、保持し、管理しているもの、
との勘違いをしている。それだけなら
まだしも、その場を訪れる人達の
上位における位置に、自らが、いるもの、という、
甚だしいほどの錯覚を
たずさえているものが 多いのです
ひとの思いの寄り集まりに
汚染をされて、本来、聖なる
場であるとされてきた区域は
黒い、ひとの闇に覆われている
というのが事実です
ひとりひとりが その場に出かけるのは
自由ですが、そのしくみを理解して
いないと 何千、何万もの人間が、
弓矢のごとく突き刺し、植え付けてきた
思いや願いの黒いエネルギーの影響を
受けることになります
聖地である、あるいは神聖な場である
という紹介のされ方をされただけで
多くの人間が、その地を訪れる
何を求めて、その地へ行くのか
わかっていない者というのは
更に、より大きなものを求めて
足を運ぶことになる
そうやって人間社会における、
自分自身のはたらきや役割という
ものから はるか離れた 自分だけの
理想郷というものを求めて、
足を踏み外してゆくものが、
ほとんどであるということに
自分自身は気付かない、という
状況をもたらすことに、なる
ゴミ拾いをしに行き、わざわざ
自分で背負い込みたいのであれば
自分自身の責任の範囲内で行うのも
自由なのですが
かき集めてきて処理できないものが
結果、どこへ行くのかを
いちど、考えてみてください、
自らが焼却炉と、なりなさい
と言っているのであって、ゴミ集積車に
なっていては、いけません
おわかりですか
その責任を知ろうとしないものが
神社仏閣や、パワースポットなどと
言われている場所へ
行きたがる、というのが
事実とだけ言っておきます
興味を持ったら、つながる、とは
そういうことです
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Wednesday, June 13, 2007, 09:17
(2006.8.8 am1受)
「たたかう」ということ
意識を支配し、占領するものに対して、たたかう、ということ。
暗く希望の無い淵に、投げ込まれた、と思い込んでいるもの、
乗っ取られ、支配されてはいけません。
その永遠に続くようにも思われる暗黒の闇を、
断ち切れるのは、自分自身、ということを忘れないでいて下さい。
そのものに占領され、使われていてはいけません。
徹底的に焼き尽くしなさい。総攻撃をかけてきます。
戦い、焼き捨てる意志のないものは、乗っ取られます。
自分がたたかい(闘い?)(戦い?)、自分で焼き捨てること。
誰かに何かの助けを求めても意味がありません。
そのための剣(つるぎ)です。
どちらの道を選ぶのも、自由です。
正しき意識を持ち得るものには、そのちからが、与えられます。
苦難の中で闘っているのは、あなたひとりではありません。
圧倒的に不利な状態で、戦わざるを得ない状況に
向き合わされることになるかもしれません。
あきらめることは簡単です。
それで自分自身を納得させることが出来るからです。
ルールを、もう一度、思い出して下さい。
変革を起こそうとするものには、膨大な圧力がかかります。
「つぶしてしまえ」という指令のようなものが、
いっせいに公布されます。
あらゆる方法で、それらは現実のカタチとなり、あらわれます。
びくびく恐れる必要はありません、
そのものに対して、横柄に威嚇するなど、もってのほかです。
ただ、それらを冷静に分析してみなさい。
感情というものが、噴火前の火山のように、
すさまじいエネルギーで、つき動かされるかもしれません。
が、そこに左右されてはいけません。
揺らいでは、ならないのです。
攻撃的なことばや、態度によって、
それらは挑発してくるでしょう。
しかし、そこで相手の出方に影響されて、
あなた自身が感情的になっては、
それはあなたの負けです。相手の思うツボです。
ですから、口車に乗らない、感情を動かさない、
常に冷静な判断力によって、観察し続ける、ということです。
感情をむき出しにして挑発してくるものに対して、
感情を返してしまったら、
相手のエネルギーは、さらに増します。
火に油を注いでも、問題が複雑化するだけです。
こころを動かさずに、闘う、ということは、
難しいことかもしれません。
それには、きっと幾度も失敗を重ねて、
学んでゆくものだというルールが適応されるからです。
失敗し、反省し、では次は同じ失敗をしないようにしよう、
というところから、次へのステップが用意されているからです。
何故だか、わかりませんが、ひとは、
失敗というものを恐れ、毛嫌いし、避けようとします。
自分ががっかりし、打ちのめされたくは、ないからです。
いつもいつも、そうやって、災難や艱難を避けようとして、
ひとは生きています。
自分の身に、何かが降りかかる前に、
その場から、避難することしか見えていません。
そのため、いざ、その状況に向き合わされた時に、
対処のしようがないのです。
頭の中がパニックになり非常事態宣言を発しだします。
不慣れな状況に立たされた場合、対処の方法を知らないがために、
一時的に、論理思考回路というものが、通信不能になります。
平常時に、冷静に考えれば、わかるようなことがらが、
全く見えない、という状況に陥ります。
適切で、かつダイレクトでストレートに相手に伝え得るはずの解答が打ち消され、
自己防衛のための不平不満といったものが口をついて出てくるようになります。
せっぱつまった状態で口から出てくる言葉は、
相手に対しては不平や不満というふうにしか受け取られていません。
言い訳や、文句のようにしか、聞こえないからです。
感情というものに影響されると、こういった結果が必ず待っています。
よいですか、他者に向かって口汚い言葉などで、ののしるおこないをしているものは、
自分がそういった行為をしている、ということを自覚していません。
ですから、そのおこないが相手に対して、
どういった影響を及ぼしているのかということなど、
はじめから頭の中に無いのです。
されるがままに、される必要などありません。
かえって、あなたの被害者意識が増えるだけです。
そこで、いじいじと落ち込んでいても何の解決にもなりません。
正しい方法で、たたかいなさい。
はっきりと、ことばに出して伝えないと、相手には届きません。
ただ、そこで、あなたの感情論を持ち出しても
何の意味も無いということを忘れないで下さい。
物事は理屈です。
“何がどうであるから、こうなのだ”ということを、
理路整然と相手に伝えることが出来なければ、相手は納得しません。
そのために、解答を導き出すために、
分析をしなさい、と言っているのです。
何が問題なのか、どの部分において、不具合があるのか、ということを、
見て、考え、探し続けなさいということです。
問題点を見つけ、把握し、解決方法が何なのかを考え続ける、ということ。
冷静に、判断をし、どういった対処方法が適切なのかを、
常に考え続けるということ。
そこには人間個人の感情論など関与させては、ならないのです。
自分の意識の下層にいると、同様のレベルのものが、
つながりを持とうとします。同時に、ひっぱり込もうとします。
人間同士の波動というものは、こうやって共鳴し合います。
自分が上、相手が下、という選別意識を持つなど、もってのほかです。
勘違いをしてはなりません。自分の意識が落ちていた時に、
相手も、たまたまそのレベルにいた、というだけのことです。
ひとりひとりの人間それぞれに上層、下層というものが存在します。
落ちている、と感じたら、すこしでも平常な意識に戻れるよう、
上を向いて、努力をしなさい。
人間意識の進化の方向性、とは、何なのかを、
ひとりひとりが考えればよいだけのことです。
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