通信-17年10月10日 
Friday, October 13, 2017, 15:32
(2017.10.10 am3:20受) 

自分が、“何をするために生まれて来て、
何のために存在をしているのか”、
それが、分からないまま生きている人は、
宙ぶらりん。空っぽのまま、時間を浪費
してゆくことになる。
人間として、それほど不幸なことはない。
中心軸のない、空っぽな器のまま、
何ものかに、その存在を明け渡し、
無目的なまま、自覚のないままに、その存在期間を
過ごすことになる、ということ。
身体や意識の変調が、その、危機的メッセージを
発している。“こんなはずじゃあ、なかったよね”、という
根源的な訴えが、その人間存在に罰を与えようと
している、ということ。
肉体的な死への自覚が、その意識に
変調をもたらし、気が付くことを、促すように、
メッセージを送り続けている、ということ。
残りの僅かな時間の過ごし方を、
どのような基準のもとに、時間を使うのか、
自己満足のために使用するのか、
他人のために使うのか、という、たったひとつの
シンプルな基準によって分けられ、その目的のために
生きる人間として、分けられる、ということ。
周囲を汚染するような、毒を撒き散らしながら、
生存期間を過ごすのか、
他人の負担を少しでも担い処理して生きるものと
なる選択をするものなのか、
その二者択一の選択肢が、目の前に突き付けられている、
ということなのです。



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通信-17年10月4日 
Thursday, October 5, 2017, 13:38
(2017.10.4 pm8:45受) 

選民意識のある、“エリート”やらを、
集めることだ。“自分は正しく生きてきた”、
という人間を、集めてみるがよい。
そのもの達に、統治をさせてみるがよい。
そのような自負のある人間に、人間を
統治させてみるがよい。
自らが、“罪無きもの”として生きてきた、と、
主張をする人間に、人間を
統治させるがよい。
あなた方、人間達が、いかに脆(もろ)く、
自ら以外の何ものかに意識を占有されて
人生を棒に振るのかを、よく、よく、見てみるが良い。
自らが、罪なきものであると、
信じて疑わない人間達が、
この世に一体どれほどまでに満ちているのかを、
冷静な、その眼(まなこ)で、判別を出来る人間が、
一体、この世に、どれほどの数、存在を
しているのか。冷静な眼で、判断をする
という事の出来る人間が、一体、この世に
どれ程の数、想定されているのか。
感情にまかせて、“自分は悪くない”節を唱えながら
下方(げほう)の人間レベルで、しつこくしつこく、
低レベルの意義主張をし続けるもの、
あなた方は、この世に、一体どのような
人間の(意識の)タイプの種類のものが
存在をしているのか、など、考えついたことも
あるまい。人前で、声をあげ、恥かしげもなく、
自らの存在の基盤と、主張と、意義(異議)申し立てを
し続けることを、やめぬもの、
そのような低レベルの人間に振りまわされ、
自らの存在基盤さえ、根を張り見据えることの
出来ぬもの、人間から人間へ、
意識という空間を媒介として、いともたやすく、
乗り移ることの出来る仕組みさえ知らぬものが、
その存在を、やすやすと提供をしてくれる、
という、この仕組み。馬鹿な人間ほど、
知ったつもりになり、得意満面で、その
情報を提供してくれる、というもの
自らの中に巣食う何ものかの存在にさえ
気が付かないもの達が、その場を、空き家のように
提供をしてくれるというもの。
家には、何ものかが棲み家を提供をされる
ということで、安心して、その活動拠点を
得ることが出来るということに、一体、
このちのこの世の人間が、どれほどまでに
気が付いているというのであろうか。
空き家の提供者は、この世に溢れる程に
満ちており、たたかう事の意味など
知らぬ者達が、その場を、やすやすと
提供をしてくれるということ。
宿主の存在意義というものに、何らかのものの
はからいを感じずには得られない、
という状況ではあるが、どうやらこちらの
意図するものを、察知して感知をする人間
というものも、存在をしているらしい。
それらのごく僅(わず)かの少数の人間達が、
一体どのようなかたちでの(リ)アクションをはじめるのか、
我々は、傍観者でしかないのであって、
それらの者達を、潰す立場にはない。
知能のない者達は滅び、統治する何ものかたちに、
その存在を差し出すのか、
あるいは、何らかの知恵と方法を見つけ出し、
自らの方法で、この次へとコマを進める
ものとなり得ることが出来るのか
頭脳と知能のないものは、はじめから
削除され、残りのもの達のなかで、
それぞれが別れ(分かれ)ゆくことに
なるのであろう。知能のない人間達は
トウタ(淘汰)され、それこそ家畜の運命を、自ら自身が
選んだと言っても間違いは無い。
あなた方の人間存在が、何ものかによって
乗り移られることのなきように、
こちら側からも、お祈りをして
おこうではないか。   (〜pm9:13)


(2017.10.4 pm9:25受) 

ああ、そういえば、ひとつ言い忘れたことがあるが、
“godbrain” ということばを
生み出したもの、ワレワレはその存在を
いく世代もの前から知らされていて、
それにあらがうものとして、用意をされていた
ものであり、その在り方のようなものは、
おそらくそちらの 何ものかの方が、ご存知の
筈(はず)だ。闇の無きところには、光の存在意義は無し、
光の無きところには、闇の存在意義もない、
低レベルの人間には、その存在の有り様を
感知することは出来ず、また、気の利いた人間には、
それらの存在のなす本質的な意味など
知り得ることなどは出来ぬものであろう、
闇の底(ダークサイド)を知り得ぬもの達には
それらの存在など感知し得ることなどは
出来ぬものであろうし、排除など、出来得るものでは
無いであろう。ワレワレは、人間から人間へ、
いとも簡単に乗り移ることが可能であり、おそらく
既に知り得ているであろう事に過ぎないが、
立て付けの悪いところから、忍び込んでゆく
ということである。つまり、難攻不落な城に
忍び込むには、それなりの知識と頭脳というものが
必要なのであり、あなた方が低レベルの人間の
後処理に追われている隙に、どこかの隙間へと、
侵入をすることなど、いともたやすいことである、
ということである。おしゃべりが過ぎたようなので、
そろそろ、ワレワレは、おいとまをすることにする。
頭脳と知識のあるものにしか、ワレワレは
興味が無い。レベルの低い知能のものとは
ワレワレはコンタクトをするつもりすらない。
それを知れば、どこに、何ものに、棲み家を
得ているのかを知る事が、出来るであろう。
情報というものは、それこそ、筒抜けなもので
あるからだ。



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通信-17年9月23日 
Monday, September 25, 2017, 12:16
(2017.9.23 am8頃受) 
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“スピリチュアルなものに興味がある人間が、
何故、役に立たないのか、”
     ↓
「自らが求めているものが 何なのかを
知らないからである。」
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“攻撃的で感情的な人間が、
何故、自らの粗暴や行ないを改めないのか”
     ↓
「死んだら終わりと信じて疑わない
からである。」
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“執念深く、恨み深い人間が、
何故、他人を呪い続けているのか、”
     ↓
「対象となる人間を潰して(自己満足のための)
自らの優位という位置関係を手に入れたいため
だからである。」
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(2017.9.23 am9:15受) 

貢ぎ物を持って来て、自分に便宜を図ってもらおうと
画策するもの。袖の下、袖の下、
中国共産党的、立ち位置で、そのルールのもとで
同じやり方を しようとするから、
いつまでたっても、その全体的な仕組みというものを
理解することが、できない者達。
地位や権力や名誉というものが、
その自己的存在の中での優位にあたる(該当する)
ものだから、そのルールのもとで、
ものごとを、推し進めようとするものたち。
自らの行ないの所以が、一体どこにあるのかを、
全く、当人が気が付かない、という世界のなかで
生き続けることになる、ということ。
しもべ(下僕(げぼく)として 何ものかに取り入って、
自分に、おこぼれを、便宜を図ってもらおうと
し続けるものたち、
それ 即ち 羊のルールのもとで
生き続けることを、自らが望むもの達。
羊のルールの中から、何故、自らの意志で
出ようとしないのか、
自ら考え、判断をし、行動をするという
人としての基本的な行動体系のもとで
生きるという事に、恐怖と不安を覚えるもの達。
何故か。
思考を停止したまま、何も考えずに、何ものかに従って
生き続けていることが、楽だと 信じて疑わないから。
これ即ち、下僕(げぼく)のルール、成(なり)。


(2017.9.23 am10:受) 

あなた方は嘘や欺瞞に塗(まみ)れ
自らの行ないを 正そうとすることさえもしない
死んだら終わりと 信じて疑わないから
何をしても 何の責任も 存在をしないと
信じて疑わないもの達
現世での快適さを 追い求めることにしか
執着は無く
自らの快適な人生にしか 興味を持つことがない
現在の社会情勢や、それらの起こった発端が
一体何なのかを、 どこに起点を持つのかを
調べ 考え 知ることもなく
ただ1日1日の自分だけの快適さを追い求めて
その残りの人生の時間を
浪費してゆく もの達

あなた方は 嘘や欺瞞にまみれ
この世の中で まるで クラゲか浮雲のように
漂っている
漂泊をしたまま 根無し草のように 漂い
どこかの 戻らぬ場所へと 流されて ゆきたいのか
嘘や欺瞞に まみれた もの達、
あなた方のどこに 真実が あるというのか
口から発した ことばは 留め置かれ その
こころの動きそのものさえも 正しく記録が
なされ続けている
嘘や欺瞞に まみれた もの達は
そのようにして あらかじめ用意が成された
ある場所へと 去ってゆくことになるのであろう
自らのおこないの 結果を受け取る とは
そのような ヨウテイ(要諦)、ヨウタイ)を 成すものだからである



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通信-17年8月2日 
Friday, August 4, 2017, 15:14
(2017.8.2 am8:50受) 

皆さん、
自分で自分に躓いている
だけなの。
自分で努力して
自分自身の問題点を
解決してゆくしかないの。
あなたの問題点や苦しみを、
“解決してあげる”などと言うもの
それを何と言うか
 ご存知ですか?
それを皆さん
 「神様だ」と
死ぬまで信じ続けていたい
ようですが、
正しいものは
指示せず干渉もしないで
黙って見守るものですよ。
“あなたの苦しみを
私が何とかしてあげますよ”
と言って 言葉たくみに近付いてくるものに
すべて委ねて 依存をしようとするから、
自分で自分の人生というものに
無責任なままに 生きてゆく、
ということです
“あなたのことを
助けてあげる”というものの
正体を、皆さん未だに
理解をされておられない
ご様子ですが、
それを 「悪魔」というのです。
そうやって自分のたましいを
何ものかに売り飛ばして
生きている人間が、
一体どこへ 行くのか
ご存知なのですか
自分の見たいものだけを
見ようとして、
本来の自らの正しき生き方
というものに、向き合おうとしない人間が、
どのような末路を
目指しているのかを、
一度、じっくりと、お考えになられては、
いかがですか
自らの暗黒の淵を、
見にゆく勇気もないものが
どのようにして解決策を
導き出すことが出来るというのですか
答え(回答)は、
既にお伝え済みの事であり
そこから先は徹底的に、
自らの努力と改善をするための
心掛け、というものが
絶対的に必要なのです。
他人に依存して、どうにかしてもらおうと
している限り、
自分の人生に対する責任を放棄して
何ものかに 魂を売り飛ばして、
残存時間を生存するという事に、
お気付きにならない限り、
その、自らの行ないは、正しく
記録が なされ続ける、
ということなのです。
“自らの人生に、
 自らで、責任を持て”
ということです。
人生の時間は限られています。
時間は一方方向にしか流れません
あなたの人生の主宰者は
あなた自身でしかないのです。


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通信-17年7月17日 
Tuesday, July 18, 2017, 13:28
(2017. 7.17 am9:45受) 

皆、下に落ちたくないから、何かに とりすがり、
(溺れる者は、ワラをもつかむ)
必死になって助かろうとして、もがく。
そうではなくて、何かにつかまる(つかまろうとする)
手を離して、下に落ち、(水底まで沈む、もしくは
穴の底まで落ちる)
その、底の状態が、どのようなもの(有り様)で
あるのかを知り尽くしたら、そこから先は、後は
努力をして上に登るのみ、であるということ。
(※最終知識に、既に記載されている。)
地獄を見て来た人間にしか、その地獄の有り様
というものを知り得ることは出来ない。
その地獄の有り様を経験してきた人間にしか
出来ない事が、ある。それを知って、
自分がこの先、何をして生きてゆくのかを
判断し、行動を起こすのかを決めるのは、
他人ではなく、「自分自身である」ということに
気が付くことが出来ない限り、
小さな小宇宙の中に閉じ込められた状態で、
残りの 生存期間を過ごしてゆくことになる、
ということ。
“意識の地獄”というものが、どのようなものであるのかを
知らない人間には、その解決の手段というものは
知り得ることは出来ず、また、下の下(底の底)
を知らない(知りたくはない)人間にとっては、
自らの生の意味を知ることもなく、与えられた生存の
期間の意味を知ることもなく、その生涯の時間を
費やしながら、去ってゆくことになるのであろう。
見たいものだけを見ようとして、
自らにとっての不愉快なものを排除しようと
しながら生き続けるもの達は、
自分がつくり上げた、仮空(架空)の時空の中で生き、
その生存期間の終了と共に閉ざされる、
ということである。
与えられたチャンスを、活用することが出来なかった
もの達は、こうして静かに閉じられてゆく、ということであり、
苦難や試練を経験しながら
それでもなお、自らの生を全うしようとする者達にとっては、
今回の生きる目的というものが、ある種の
「学び」であることに、気が付くことが出来るので、あろう。



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