Thursday, March 26, 2009, 14:36
(2008.3.25 pm3:57受)
もってのほか と
もってのほか と
もってのほかと
いうておろう
あわ ふいて
たおれなさったそうじゃ
いつまでたっても
まことに
いつの世においても
あらそい事を 好む
おかたが 多くて
困った ものじゃ
気を付けなされよ
さかうらみ
というものは
まこと おそろしき
生きるもののエネルギー
となって
対象となるものへと
放り込まれておることに
早く お気付きになられたほうが
よいかと 思うのじゃが
いかがじゃろうか
ひとの世に
立って 正しきおそうじ
あな うれし
自らのミタマ せっせと磨いて
軽く すがしく なりたなら
入ってきたもの 処理するシゴト
それが お役目 果たすこと
緑の地球を守るため
つぎの未来に残すため
学びを得るのも
おなじこと
創り育ててゆくものと
おそうじ担当するものは
ひとの生きる 世のために
ただしく 身を持ち
うごくひと
かえる その日を
まちわびて
とりでの むこうに
まっている
わたしは これを するために
生きて 生まれてきたものです
それらの主張をするものが
自ら自身を 発見し
大きく 小さな宇宙のなかで
自ら 自身の 発見を する
大きな 宇宙と 小さな宇宙
それらを こえた
宇宙 ふたつぶんの先に
ある 真(しん)の理
自らの存在の 理(ことわり)を
知り
そのしくみと 役割を
知り
試練にさらされ
それを乗り越える 勇気を
持つものには
正しき 役割をまっとうする
その 正しき方向性の
指し示す
担うべく 能力が
開花されんことを
もどりて ゆき
ゆきて もどり
その 振幅と
許容量 は
常に拮抗
そこで 1歩
前へ 踏み出す 勇気が
問われ ひとは
試される
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Wednesday, March 25, 2009, 21:29
(2008.3.24 pm9:45受)
あえて、それを何かに
たとえるのならば、
それは、駅伝のようなものであり
階段のようなもの。
出発点から はじまったものが、
つぎの新しいものへと
進化をし、更に、その次のものへと
受け継がれてゆく もの
一段目の位置に、いるものは、
二段目のものへとバトンを渡し、
それらは引き継がれ
次の時代へと
受け継がれてゆかれるもの
自らが階段の頂点に
立つのではなく、
自らの担当する役割が
終えることが出来たなら、
次の時代のものへと、
手渡して ゆくもの
正しく役割を果たせたものは
正しく 去ることの意味をも
知るもの
つぎの(次の、継ぎの)ひとたちに
手渡すことの意味を
ちゃんと正しく 知り
それを 伝えることの出来るもの
正しく あるべき 姿というものと
見間違えては ならない部分とを
知り それを 知らぬ人たちに
正しく伝える勇気を
持ち続けるもの
誰に それを 依頼をされるものではなく
自らの判断と行動とを
ともにし、
伝えるべき ことと
それを伝えては ならぬべきことの
良識と判断を
ともに持ち合わせ
何が 知らせをしなければ
ならないことなのかを
自らの正しき光の領域にて
問い続け それらの意思を
提示することの重要さを 知り
自らが十字架にかかることを
覚悟しながら 人の身を持ち
はたらきを し続けるもの
自己の責任 ということばすら
見ようとも しないものの
罪と罰というものを
背負う覚悟を決めて
立ち続けるもの
あなたが放射を し続ける闇は
誰のもとへと届けられていると
思いますか
あなたが いくら それを知らないと
いい続けていても
克明なる事実として
今も この瞬間も
記録が され続けていることに
気付いて下さい
見たくもないと 言い続けるのは
それが まさに その通りの
事実を 目の前に突き付けられて
いるからでは ないのですか
ひとを 呪い、うらむのは
あなたの勝手ですが
すべての人間において
必ず自らのしたことの責任は
取らされるということの事実を
どうか 知っておいて下さい
それが正しき
精神界の ルール
というものです
例外も除外も
一切 与えられては
いないのです
お伝えをするべきことは
以上です
あなたが他者を
ねたみ呪い続けることにより
それらの
おこないを
なげき悲しんでいる人間がいることを
知っておいて下さい
見えても見えずを 卒業したものたちは
見たくもないものばかりを
毎日 見続けているのです
それが十字架を背負って生きるということの
本来の意味です
ご理解をしていただけましたでしょうか
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Monday, March 23, 2009, 13:17
(2009.3.22 pm4:20受)
“信号が発せられたぞよ”
御国へいたる
道すじは
おのおの 選択
すべきもの
助けを求めて さ迷うものに
手だてと たすけは
いりはせぬ
ひとり ひとりの にんげんが
見えても見えずを
くり返して いる限り
あたらしい世の めざめが
もたらされる日は
先延ばしにされる
ばかり なり
自らの あしで 歩く
意志のないものは
置いて ゆかれます
なぜ ならば
あらかじめ 決められて
定められた 時間どおりに
物ごとは 進んでゆくからです
手を引っぱってくれて
連れて行ってくれるもの
という甘い期待を
抱き続けているものには
その場に捨て置かれることの
意味を
知らせなければ なりません
生み出し 創り出す 能力と
可能性を
それぞれ ひとりひとりの人間に
はじめから 用意され
与えられているにもかかわらず
見ようとも 気付こうとも
しないものには
気付かされるものでは
ないからです
正しく契約をし
正しく 学びを得たものにしか
それらの 気付きは
もたらされない からです
それらの実証段階は
もう 既に 終了しました
ふたつに 分けられる ということも
実証が なされました
見えても 見えず を続けるものには
お望み通りの
永遠の暗黒という場が
提供され 与えられることに
なるのです
もっとも ご当人にとっても
自らが望み希望をしていた
楽しい場 として
認識が なされていることでしょう
それらの しくみは
既に 書のなかに
知識のなかに すべて記されている
ものでしか ありません
正しく 目を覚ました ものたちは
自らが何の役割を持って
このちに この世に
生まれたのかを
知っているはずです
嵐のあとの 静けさと
嵐の前の 静けさとでは
目的も意味も
全く 異なるもの だからです
いま にんげんとして
はたらくことを 決めたもの
去るべき場へと
去ることになるもの
それらの用意は
全て 整えられました
信号を受け取ったものには
それらの通達が
既に なされて いるはずです
あらそいのない 世のために
たたかい続けることの 意味を
知るものたちには
それらの意志決定を
体現して生きる
勇気と 正義
というものが
既に与えられているはずです
自らの役割というものが
何なのかを知るものは
さいわいである
自らの生まれた意味を
知るものたちだからである
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Thursday, March 19, 2009, 11:44
(2009.3.19 am9:受)
あなたがたに
お伝えをし続けている
事実 とは
絶対的なルールにおける
審判の 意志 というもの
自らが助かりたいと
思い願うもの
誰かからの恩恵を 授かりたいと
思い願うもの
自らの足で立つことも知らず
何ものか からの
恩恵を さずかることしか
目的として
持つことが 出来ぬもの
イエスの十字架に象徴をされる
この時代
自らの足で立つことを
決めたものたちを
殺そうと たくらみ
その能力を ねたむもの
何ものかの とりはからいにより
足を突込むことに なった
という その原因 を
自らの 言い訳に し
自分以外の 何ものかのせいに
して
自らの 非 さえも
認めようとは しないもの
よくよく
あなたがたに
お伝えを して おきます
自ら 自身の 意志決定と
行動 とが 伴なわない
ものは
契約を履行することの
できない もの
なのです
たにんのために はたらいて
自らを犠牲にしているものたちの
立場になって ものごとを
考えたことが あるのでしょうか
してもらって 当たり前
益徳を もたらしてもらって
当然 という 根本的な
根深い ね のようなものを
持ち続けている限り
正しき にんげん として
世の中で はたらくことなどは
できないのです
あしを 引っ張るにんげんは
先へ向かう ひとたちの
さまたげにも なるのです
おおいかぶさり
引っ張っていってもらおう
という
おもい おもいが
おおいかぶされる ためです
あとから 来られる 方達のために
道を 空(あ)けて おく
というのが
筋 なのでは ないのですか
欲深く ねたみ深い
にんげん ほど
それらの指摘が
自らのものであるとは
認めようとは しないのです
あとから来られる 方々の
道をふさぎ 邪魔をしては
ならないのです
ただしく はたらこうと
するものたちに
かかる負荷は
大きく
それらは 同じ学びを
したはずの もの達からも
そそぎ込まれているのです
目の前を行こうとしているひとたちの
あしを引っ張って
どうしようと したいのですか
イエスの 時代
ひとびとは
持つものを ねたみ
呪い続けてきた ものでした
今の時代は そのときと
比べものに ならない程の
悪い方向へと 進み続けて
いるのです
ひとが お互いに
闇のエネルギーの影響を
及ぼし合わないためには
一体、何が 必要と
されているのかを
いちど 考えてみては
いただけませんか
ひとりひとりが
正しく 自分自身に向き合い
考え続けるためには
一体 何が必要と
されているのでしょうか
それは すくなくとも
あなた方が お望みの
特殊能力 というものでは
ないはずです
すべては 理(ことわり)です
何らかの 原因が あり
それが もとで
問題が 派生をしているのなら
それらに まっすぐ向き合い
見つめ続けなければならないのは
あなた自身であることに
早く気付いてください
それが お伝えをするべき
事実です
あなたが乗り越えなければ
ならないものは
自分自身であることに
気が付いて下さい
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Monday, March 16, 2009, 18:22
(2009.3.16 pm3:受)
依存心が強いまま
相手の言うことに
耳を貸していると
相手のおもい そのものまでを
背負わされることに
なるのです
ひとの おもい というものは
みずからの欲求や 要求
というものを かなえ
実現をさせて欲しいが為に
相手となる人物に向かい
無自覚なまま
放射が なされます
こうであってくれれば いいのに
こうしてくれれば いいのに
といった
ひとの おもいの エネルギー
というものは
それを受け留めてくれる人間の
もとへと届けられ
それらのエネルギーは
体内において どんどん蓄積が
なされて ゆきます
入ってくる量に対しての
処理能力というものが
追い着(つ)かないと
処理しきれていないものが
ご本人の無自覚なまま
闇のエネルギーとして
蓄えられることに
なるのです
それだけの負荷を
受けながらも
ご当人が気が付かない限り
はっきりとした身体の
症状として 顕れるまで
状況を把握することが
出来ないのです
一般的に
「いいひと」と
呼ばれている人のもとには
当然のことながら闇のエネルギーが
集積されることになるのです
処理能力が限界になると
コップから 水道の水が
溢れ出るように
こぼれ落ちて来ることに
なるのです
何度も お伝えをしていますが
ひとの 思いのエネルギー
というものは
闇のデータでしか
ありません
焼き捨てておかないと
溜まってゆくものだということに
気が付いてください
当然のことながら
それらの闇のエネルギーの
処理は 自分自身が
なすべきことであるという
きほん的ルールに
必ず戻らなければ
なりません
どこかの誰かが
何とかしてくれるという
思いを 描いている限り
ご自身の浄化力が
高まる ということは あり得ません
何度も お伝え済みの
ことなのですが
人間相互に
影響を及ぼし合っている
エネルギーを知り
それらを処理するための
学びとハタラキ
という原点に
必ず戻って下さい
ひとは 苦難に陥ると
必ず 自分を助けてくれるものを
求めるように なるのです
そのしくみを 自ら自身の状況を
客観的に 外から観る 視点を
持ち得なければ
いつまでたっても
堂々巡(めぐ)りの、
同じ場所から
離れることなどは
できないのです
くり返し お伝えをしますが
自ら自身の 救世主は
自分自身 でしか ありません
自分以外の 何ものかに向かって
助けを求めている限り
その意識の向かうべき 方向性
というものには
気が付くことが
できないのです
特定のかたについての
伝達事項ではないことに
気が付いて下さい
自分にとって
それが該当をしている内容で
あれば あるほど
ひとは それを
自分のことでは ないだろう
と否定を したがるもの
なのです
まさか 自分が
それであるはずではない
という 一種の 言い訳のような
文言は
自分は それには 当てはまっては
いないはずであって欲しいという
恐れや不安から
もたらされるものだからです
そうやって、
そんなはずではないと
否定をするものが
自己防衛の
かりそめの 安堵感
というものの正体
であることに
気が付かなくては
なりません
自分は そんな
ひどい人間ではない
あるいは
世の多くの悪人よりかは
マシである という
思いを 抱き続けている限り
その立ち位置からの
成長は
望むことなど
できないのです
たにんの目の中に
ちりを 見つけても
自らの中にある
はりには 気付かない
そうやって 自分以外の人間と
自らとの比較をしている限り
進路の認識の出来ぬまま
歩こうとしているという事実に
気が付かなければ なりません
自らの問題が解決できない限り
当然のことですが
周囲にいる人達の状況が
改善されるということは
あり得ない からです
どこかで 何かに
何とかしてもらおう という
意識を 持ち続けている限り
現状打破の 機会というものは
生まれようが ないのです
自らの頭で考え
判断をし、
実際に行動に うつすこと
自らを変えるのは
自らでしか ありません
たにんを助けたいなどと
思うのならば
あなた自身が
自らの中にある その傲慢さに
気付き
自己の方向性と そのあり方を
変えない限り
現実の顕現をしている世界においては
何の変化も、もたらされることは
ないでしょう
たにんの思いに影響をされ
自らの基軸が 揺らいでいるようでは
立っていることさえ
おぼつかなく なります
自らが 自らの状況を
客観的に かつ冷静に
見続けなければ
自分が一体 どこに
どのような状況で
存在をしているのかさえ
わからなく なるのです
自分自身を客観的に
判断をすることが できないと
とらわれます
それは いわゆる 迷宮という
場を指し示します
何を するために 今存在をし
何をもって
どの到達点への道のりを
歩みたいのかを
自分自身が 自覚をしておかないと
あやふやなまま
その生を まっとうし
残存期間を過ごすことに
なるのです
ご理解をしていただけましたでしょうか
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