Thursday, January 8, 2009, 16:14
(2009.1.8 pm3:35受)
いわれなきものを
とふ(う) ゆうき とは
あしあとのなき
あし おと のみを
とふ(う) という こと
とほ(お)き ゆめの
さまよひ(い) ほ(を)
まぼろしと とらえるか
否か
むすめ たち
きき たまひなさい
いのちのある
ゆくすへ とは
きりの なかで
みずからの みちさきを
みちびきだし
その さきに あるものが
何たるかを
しるために
ある
きりの なかで みえぬ とき
あせり はしり いそいでは
なりません
みづからが しょうもうし
なにひとつ みのりは
えられないため
だからです
じきを かぜを
見 続けなさい
それらを 注意深く
見ることの すべを
知り なさい
とり のこし
のこされた ものであると
思って いては いけない
よく 気を付けて
ものの まわりの 状況を
見て いなくては なりません
うごくべき ときに
うごく ための
じゅんびを しておく
必要が あるから です
あるとき いっさいのものが
むに ふされた とき
なにを どう うごかして
自らが おしえ みちびく
ものと なるのかを
かんがえ なくては なりません
なくしたものを とりもどすことより
いちから つくりあげる ほうほうと
しゅだんを 知って おきなさい
それらのための まなびと
よういで あることに
もう すでに 気が付いて
いるはず です
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Tuesday, January 6, 2009, 16:33
(2009.1.6 pm2:30受)
あたまの ま
ま の いみは
真であり 間であり 魔でもある
とらわれた その 身たるや
まみの ゆへ
みみと のう の
その かんけい
まま と なり
ま と なるを
えにし ゆへ
ゆへ なるほ
きき かへし
きき かへし
ならす おと
おと おとだまの
すべ なるほ
みみ だま の
おとの ゆへ
ゆひぶつ に
ならし きかし
うんめひ ほ
ききとせず
きき かひな
あらはし ほ
うけとめて
みさだめて
ゑゐ(えひ)もせず
うつしたりて
まどはされる ことも なく
うゐ(ひ)の よ たび
はなちたるは
きくりびと
きく り びと
いっさいの あらはしほ
もろとせず
ものみやぐら
たちうち できぬ
きく からに
いし だたみ
たたみ かける
おくり よ は
さだめ なりて
みづ と しほ の
つひ の うつし
きき かひな
きき かひな
をと
うをと
くち へらし たるほ
きき よし て
うらがひ の
ものおと なるは
あらはし たりたる
ものの への
いき だたみ
くる ひも くる ひも
あし おと
あし あと
ならし つづける
おと と あと
つどひ たまひて
われ なくば
われ を み
われ よみ
われ したがひて
さん さん くどたる
おひ まはし
ここに ありて
ここに ありき
きよめの ちぎりの
こ こ の よの
おしへたまひ
たまき かづ(ず)ら
かず あはせ
かず を よみ
よみ たたへ
たたへ たり
つき みちて
みちし つきの
はれ あがりたる そら
うつす みよ
ここに ありき
ここに ありき
て だま
あし だま
たまとなるほ
とはれる ゆうき
とふ ゆうき
ゆふき たるらん
たる みの ゆへに
くどめの よ
く となりき
くにがため
くくるよの
くん と たみ
うち と うち に
けひて たまひ
けうの よちか
うき うきて
しづみ
しづみたらしめ
うき ゆくものに
こだはる ち から
ち から
みち から
けむ と せむ
とどこおり なく
すすみ ゆく
しんか
いな か
ただし ただする
ものほ しる
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Tuesday, January 6, 2009, 10:37
(2009.1.3 pm2:20受)
あつい くもで
おおわれた
そのさきには
あかるい
ひの ひかり が
ある
そこに ゆく ためには
その あつい くもの なかを
とおらなかれば
とどか ない
あつい くもの なかには
いろいろな しれんが
まっている
でも そこを とおらないと
あかるい ひの ひかりの
ある ばしょ へは
たどりつくことが
できない
あつい くもの なかを
とおり
いつか かならず
とうたつ できる ことを
かくしん しながら
だまって いばらの みちを
せんたく しますか
それとも
かりものの あかるい
ネオンに かざられた
たのしそうで しあわせそうな
たどりつく さきには
べつのものが まっている
ちがう みちを
えらびますか
えらびなさい
みずからで
どちらの みちを
えらぶ のか
それは あなたが
きめて えらばなければ
ならないのです
そのさきに まっているものが
なになのかを
しっている はず です
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Saturday, January 3, 2009, 11:24
(2009.1.3 am10:50受)
そこの
小さな ひと
あなたが それを
おしえる 係
です
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Monday, December 29, 2008, 16:52
(2008.12.26 pm1:05受)
みことばの意味を
知らぬもの
あなたがたに
よくよく 言っておく
前を見て 歩きなさい
ということの
その意味を
はき違えるもと(の?)と なっては
なりません
よくよく あなたがたに
言っておく
ぞろぞろと
指導者の 後ろについて
何も考えずに 歩くということが
一体 何をさし示していること
なのかを
宗教の時代は終わり
自らの意思(志?)と判断により
自らの足で歩くことが
もう既に 求められて います
あれほどまでに くり返し
くり返し 何度も何度も
お伝えをしてきた はずなのに
まだ、判りませんか
あなたがた、
そうやって 誰かの指導のもとに
つき従って
何も考えずに 言われた通りの
ことを うのみにして
生きてきた ものたち
なのでは ないのですか
何度も お伝えをしているように
自らの判断と意志決定と
行動が 伴わないと
ひととして 正しく 存在することすら
出来なくなるのです
同じあやまちを繰り返すことほど
不毛なものは
ありません
正しく 判断をし 選択を
しなければならない
必要性がある状況に
向き合わされたならば
どう行動をすることが
正しい選択なのかを
徹底的に検証をする為に
浄化と上昇をし、
自らのアタマで考えなさいと
言っていることの意味を
理解したくは
ないのですか
一体、いつまで同じことを
何度も何度も
くり返し いい続けなければ
ならないのでしょう
物語がはじまった以上
それらは読み終えるまで
進行をしてゆきます
同じ誤(あやま)ちを繰り返すものは
循環の 環(わ)の中に
閉ざされるのです
出るのも出ないのも
自分自身で 決めるしか
ありません
言われた通りのことしか
出来ないのであれば、
自ら自身が考え、行動をし始める
ということとは全く縁の無い世界で
生きてゆくものとなる
それが 羊ということばで
たとえられていることの
本質なのです
そこには ただ単に
羊の飼い主が 変わっただけ
という事実が
存在しているに過ぎないのです
自ら考え プランを練り
それが どういった事がらや
波及効果をもたらすのかを
考え シミュレーションし
現実に どういった手続きをふめば
実現可能なことなのかを
考えましたか 考えていませんか
いちどきりの人生のなかで
実際に ヒトとして行動をし
動ける時間は短い
あとになってから そのことに
気付いても
時間は もう わずかしか
残されては いないのです
なぜ あなた方が 羊として
生きていたいのかが
わかりますか わかりませんか
何も考えないで
言われた通りのことだけを
しておけば
それで全てが許されると
思っていたいから
なのでは ないのですか
進化の 意志のないものは
トウタ される とは
このことを 示しているからです
理(ことわり)であると いい続けて
いることの 意味を そろそろ理解
をして いただけないでしょうか
死ぬまでの時間が
多く 残されているものだと
人は皆 思い続けていたいようですが
いつ 何時 何処で何が
起きたとしても
悔いのない生き方を 完遂できた
のか どうか、あるいは否か
という真実のみが 問われる
だけの 話でしか ありません
はやく その事実に
気付いたものから
自らの人生をまっとうする為の
テーマに自らが 気付き
その自らに はじめから与えられて
いるプログラムに則って
正しき使命の為にその生を
全うするものとして
生きてゆくことになる
自らの与えられたテーマに
気が付き そのために生きて
行動をするのは
自ら自身でしか ないのです
行動を ともに するのが
はやい と 思うのであれば
まだ その時期が 訪れていない
という 理由が あるからに
過ぎません
用意が 出来たものから
ハタラキ は与えられるもの
だから です
よいですか
あたらしく物事を
はじめようとするとき
必ずといっていいほど
問題は 生じます
それは今後起こりうる諸々の
問題に対して
どう対応をし、どう問題を解決
してゆくべきなのかを
勉強しているに 過ぎません
跳び越えられた ハードルは
次のハードルの用意でしか
ないのです
それらの問題を解決し
どうすれば状況が改善するのかを
問い続ける
意志と勇気が試されます
その根本となるのは
正義ということばで
いい表わされる
ある種の存在の意志
(ある種の意志の存在?)でしか
ないのです
同じことを何度もいい続ける程の
時間の猶予は残されてはいません
ひとりひとりの意識と
意志と行動が伴わないと
何の意味も 結果も
もたらされないことに
そろそろ気付いてください
自らの行動が、その後の結果を
変えることができる事ぐらい
ご存じのことなのでは
ないのですか
よくよく あなたがたに
言っておく
羊として生きてゆきたいものに
差しのべる手は
もう ないのです
人間が解放され
自らの意志で 前を見て歩き
生きるということの意味を、
自らに問うてみてください
前を見て歩く その先に
一体 何が見えるのか ということも
含めてです
どこの、一体、何に向かって
あなたは 生き
存在をしていますか
そのために 果たすべき
役割について
よく 考えてみてください
何かに つき従って 生きていたいのなら
その 何か が なくなった後
どこに向かって どう生きるのか
ということも 含めてです
どこかの 何かの 後ろに
つき従って 歩くのではなく
成すべき 果たすべき役割について
自ら自身に問うてみてください
正しく その道に
つながっているものならば
自らの生が このために
あったのだというそのことに
正しく 気付く日が
おとずれるはずです
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