ひつく文書-08年10月4日 
Tuesday, October 7, 2008, 11:55
※精神学協会「命の書」に登録された
 ある人物の死に際して届けられた
 ひつく文書

(2008.10.4 pm5:05受)

たすけて もろうた ひとたちに
なんぞの かえしが したいなら
そのひとのため いのること
ひとは みかけに よらぬもの
みとめられたと おもうていたら
おおきな まちがい
ふむ ことになる
きこえて おるか おらんかの
みとめて もろうた そのさきに
まっているのが なになのか
だれも よそくは せんじゃろが
みみの あなを かっぽじって
よく きくことじゃ
せんせいに おしえてもろうた
ないようは じっせんなくば
いみはない
きく みみを たてること
すがた かたちに まどはされていては
ならない
つくりだしたもののように
おもえるときも ある
いしきのなかの なにものか が
ことばを はっして いるのでは
と いう おもいが
こうさく し なにものが
かんよを しつづけているのか と
いう ことじたいに とらわれる
いかなる もの が
その じょうほう でんたつを
しているのか
はっする ことばのなかに
それらは あらわされる ことになる
みみの あるものは ききなさい
いくつかの だんかいを へて
もたらされる その じょうほうに
含まれる いみ と いと
もうじき おおきな うねりが
やってきて
しかと めを ひんむいて
まえを みつづけていないと
あっというまに
あしもとを すくわれて
なみにさらわれてゆく ことになる
その なみ というものが
どういった たぐいのものなのか
を よく かんがえること
ひき しおの きょうだいな
エネルギーに のまれ まきこまれないよう
みずからの あしで
しっかりと たつことが できなければ
いきつく まもなく さらわれて
うみの もくずと なりぬるものに
ふんばる あし とは
だれのもの でも なく
みずからの あし
しゅじんが もんばんや めしつかいたちに
しごとをあたえ やくわりをあたえもたせる
ことの いみを はあく しておかないと
みずからの する べきことが
みずからが わからない という
もくてきふざいの じんせいを
おくりつづける ことになる
それが つぎの(次、継ぎ)よのために
なることなのか どうなのか
だれかの なにかの やくにたつ
はたらきなのか 否なのか
それらを ちゅうしんのじくに もち
つづけないと よこからの あつりょくを
うけたときに いともたやすく
たおれることに なる
はじめから なんども なんども
おなじことの くりかえし
もっともらしきことだ
と、 なっとくをしながら
ひとは それを じっせんしようとはしない
なぜならば みずからが はたらくことで
そんを する という かんがえかたしか
できない にんげんが おおい から
ただしく ひととしての じんせいを
まっとうした たましいは
その すべてが しるされて いる
たにんのために はたらいて
いっしょうけんめい どりょくをした
にんげんは その あたえられた
たましいの しめいを
まっとう できた もの
じぶん いがいの だれも
そのじじつを しらなくとも
その たましいには そのじじつが
こくいん されて いる
あたえられた いのちを まっとうする
こと とは ほんらい あるべき
ただしい そのいのちの ありかたを
みずから じしんが どりょくし
そのからだを もって あらわすこと
それが 「いしを たいげんして 生きる」
ということ
しるされた じじつ のみが
あらわされ かいじ される
かくされたり まっしょうされる こともない
その じじつ を もとに
しんぱんを ききゅう しますか
しませんか
それが とわれている だけの
はなし である
さいごまで あきらめずに
どりょくを しつづけた そのけっか
もとめていた こたえを えられなかったと
しても そのけいい という じじつ
そのものが こくめいに きざまれて
いることを わすれては ならない

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ひつく文書-08年9月30日 
Wednesday, October 1, 2008, 11:54
(2008.9.30 pm10:00受)

ついに
はじまった ぞよ

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通信-08年9月18日 
Thursday, September 18, 2008, 15:42
(2008.9.18 pm0:44受)

よろづ(ず)のよ
みちみちて
まよいて きたりた
さんどめの
とおき よは
よはねの よ
いくたびの みちのりも
きえず まみへず
すべからく よういされ
こはいろは たしかなる
うごかせし
みのある ゆくへと
ともに いき
もくとせず
とつとせむ
きり かかる
その ゆくへほ
あらみ
きかしめし
うごかせし

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通信-08年9月16日 
Wednesday, September 17, 2008, 13:11
(2008.9.16 pm11:35受)

あなた方は、一体、
誰の身を売って
金もうけを したいもの達なのか
人民に知らしめるべき こと、とは
知識であり、
その御身を十字架にかけるという
ことでは、ないはずのことです、
一体、どういった行為を、
あなた方は、強いていると
お思いなのか、
まだ、お分かりには、なりませんか、
人々の前へ 連れ出して、
“ほら、このお方が、そうである”
という おこないをして、
おかねをかせいでいるもの達なのでは
ないのですか、
そのような、おこないが、どういった
影響を、お与えになっているのかを、
あなた方は、知ろうとは
しないもの達、
なのです。
イエスが、してきた
かずかずの おこないを、
人々に、見せ、知らしめて
おきながら、自らがそれにより
利益を得ようとしているもので
あることを、
何故、直視しようとは
しないのか、
どういった影響が
直接もたらされるのかを、
あなたがたは 見ようともしないから
それが 見えないのです
態度にも顕わさず
表情にも、口にも出されないから、
皆、それが、どのようなダメージを
お受けになられているのかを、知るよしも
ない
イエスを売り 金もうけをしようとする
もの とは 一体誰のこと
なのでしょうか
お伝えして 知らしめるべきもの
とは 知識であり
ひとの子を 殺す 手段
では ない
負荷をかけ そうとうな
ダメージを、与えているものが
一体何なのか、
それを冷静に判断をしてみて
下さい。
自らの正義が
悪魔の手先にさえ
なり得ることが できる ことぐらい
もう お気付きのことのはずです
賢いもの ほど
ワナに はまり易い
何故ならば
自らが 仕かけた ワナには
はまることは 無いと
信じ切って
いるから なのです、

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通信-08年9月7日 
Tuesday, September 9, 2008, 12:55
※白山ヒメ神社における通信

(2008.9.7 pm4:35受)

このちとの
やゆ
けひやくの
みこと ふみ

(2008.9.7 pm4:40受)

そちの のぞむる もの
あ(な?)らば
なかば たましひ
うまれ かひ

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