Friday, July 24, 2009, 17:38
(2009.7.21 pm0:18受)
イシダタミ イシダタミ
まのと
とびらの と
とどこおり なく ウケ つぐ
つげ
つげ ばしら はしら
かんのこ とり の
いっせい (一声)
いっせい (一生)
いっせい (一斉)
いっせい (一世)
さふらへし よ
よよ に でる
いで たち ぬる をは
さふらへし
きき くる よば をば
をよばづ は
ならひ さしめし
さしたる よ
きん の かん
かん の をけ
をける はざま の
たちはい に
たて と たて
ちち と ちち
ちのり ぬりはい
とものもの
こちくる いと のこ
くくられ し
きよめ たまひし たまいし
の
すどおり されなば
なされなば
おいわけ られしは
つく(ぐ) の もの
つぐみ つく み
つく つぎの みの
ろうばい されし は
まがた の えん の
えん えにし とも
えにし とも
この とち いでし
ともに あり
うごくる ものを み
もの をみ の
さして ちがはぬ
ひとの よ と
をくり だしたる
うごく み は
さらなる あしをと
きき つかひ(い)
きん こ
ぎん こ の
このあらず
たけ をとりては
さめやらず
いしの きんのこ
ぎんのこ の
はなれさふらふ
さふらひし
ここの よあけ と ともにあり
あけ くる よあけの
いみ を しる
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Friday, July 24, 2009, 17:36
(2009.7.13 pm3:50受)
かんのこ
ひとのこ
よあけの よ
もうもう まいたち けむりのよ
あかつき みなつき
よあけの よ
ささ し だしたる
よあけと ともに
うる うる うるぎは
さし かね
さし かね
ともろふ ともろふ
よあけと ともに
くる ふる
ふる る
よあけの よ
あかつき まひたち
まひ たちぬる は
もの をけ
をうけ
うけ とも ひ
かん なぎ
なぎ ひて
ひて ともに
う くる よ あけ
と
いて とも に
さん さん
さしたる さしたる
ゆへ は
み の くに
みくに
おんくに の
たた かひ
なが ぬる
うき よに
ならび
みまひ まちたる
さんと なる
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Tuesday, July 21, 2009, 23:07
(2009.7.21 pm8:44受)
さみだれの
ながるる をと をば
きき ぬりて
とわ を まち
まち たり た
たりぬる を
かかえ きれぬは
さ き あらば
まと ほ へて
へて へつ を
へつ み ゆへ
きみ が よを
よの うけ ひ
うけ ひ たまひて
つつが なく
なき とも は
ももの いえ
たりぬ とも
たらぬ とも
ともの いえ
いくつかの みち みちて
すべ からく
かりぬ かりぎぬ
きぬ かりて
はてしなき はて なき
ゆめ は うすくも の
まをかりて
こころ して
こころ ゆき
ゆきゆき の
みちみち を
たかし とて こころざし
はれゆきて
みちみち の
ありし みち
みちみち て
かわ の なり
ながるる を
かりしのの
しののめの
ながれゆく
かわ ゆきて
きみが いよ
いよの みち
ききたまひ
ひのなり を
まわりみて
すべからく
けふのいえ
ともに ゆく
とらはれは
みちのゆへ
ゆへともに
つつがなく
ものほいふ
ともに あり
うつくしき
みのたま ほ
あらはす は
きみがため
ありとし を
こへゆきて
うつしたまひ
わ(和?)ときみ ぞ
わ と なりて
わ を うつし
あらはすは
きみがため
きみが いよ
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Monday, July 6, 2009, 06:57
(2009.7.2 am3:40受)
みずからの おかした そのおこないは
自らの責任の範疇のものとみなされ
消えることもなく、書き換えられることもなく、
ただ、その存在のなかに、
まぎれもない事実として置かれ、
残されている
あなたがたが その 自らのした
おこないに対する 責任を取らない限り
契約を自ら破棄したものとして見なされ
審判の場へと 歩みを進めることになる
つまり どうされたいのかを
決める権利は ご当人に与えられ
その選択により 自らの歩む道は
決まるということである
見逃してもらえるだろう
許されるだろう という
甘い期待を抱かれている方々には
それらは無いということを
お伝えする必要があるようです
自らが希望し 期待をし続けている
手に入れたい結果、とは
一体 何なのでしょうか
契約を履行することが出来ない人間ほど
もっともらしき言い訳を 著述したがるものです
それらの主張が なされる
その存在のもととなっているものとは
一体、何なのですか
どこへ向かって歩みを進めているのかが
わからないものは
その自身の責任を 他のものへと転嫁を
したがるものです
そのおこないを続けていることが
いかに不毛なことであるのかを
知らせ伝え続けていることが
どうやら よほど その存在の中の
ある部分を 逆なでしていると
思われている ようです
自らの存在のなかに、
それらの指摘がなされると 過剰に反応をし
異議申し立てをしようとするものが
出現してくるのは 何故なのですか
自らの存在のなかに 指摘をされている
そのもの通りのものが
置かれ居場所を持っているからこそ
そこに光があたると
過剰に反応をするのではないのですか
自ら自身が克服をしていないテーマに
光が当たり活性化をするから
反論をしようとする感情が、わき上がって
来るのではないのですか
既にそれらを克服したものから見れば
納得し受け入れられるはずのものでしかないのです
その存在の闇に光が当たると活性化をするとは、
それらのことを意味しているからです
否定し、反論をし続けるのはご自由ですが、
そのままの状態で、ご自身の人生の終焉まで
変わることなく過ごされますか
どうですか
まぎれもなく その ご選択は
ご自身で しなければ ならないものとして、
目の前に用意がなされています
ふたつに ひとつ の その選択の
選別には あるひとつのルールが採用され、
そのルールのもとに 選択は
本人によって委ねられているものだからです
それが、正しいものなのか、否か。
好き嫌い、良し悪し、という基準は
採用されては いないのです
それを よく お考え下さい
正しき選択なのか、否か
それだけでしか、ありません
ご自身に 様々な欲を お抱えになられたかたには
厳しい現実なのかも知れません
ご自身が抱え持ち続けていたいものが
何なのかを、決定的に問われることに
なるからなのです
どのような判断を下すのかは、
ご自身で決めるしか ないのです
ご自分の人生を考え続け その主導権を持ち
行動するのは自らの意志決定でしかないからです
トラウマや、受けた傷というものに
いつまでも シュウ(執)着し
その被害者意識を その根っこに
持ち続けている限り、
何の解決にもつながらないことを
理解されたほうが よいのかも知れません
それがそこに存在をし続け
居場所を強固に持ち続けている限り
己の欲深さを捨てて 周囲の為に
はたらき続ける人間となることは
とても難しいからなのです
そのために、まず自ら自身の掃除を
しなさい、と いい続けているのです
その悔い改めの意味が、わからない限り
周囲の状況が変わるということなどは
不可能に近いからなのです、
自らの中に、ちりが沢山積もっていて
どうやって周囲のちりが片付けられると
言えるのですか
物事は理屈でしか ありません
そのことを よくよく
お考えになってみてください
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Sunday, July 5, 2009, 10:58
(2009.7.2 am1:40受)
収益性を もたらさない人間は
存在している価値はない
マイナス人生を
どこまでプラスに変えられるのかが
問われているに過ぎない
プラスに変える能力 イコール
その人間の収益性 だからである
益とは 単に マネーのことを意味するものでは
ないことに 気付かなければ ならない
そこで気付かなければならないことは
現代において、その益の価値基準
というものが マネーというものに
置かれている ということである
大金をかせぐことが 益である という
判断を基準とするものは
それらのペーパーマネーの幻想の中で
生きて死ぬものである
結果何がもたらされるのか という論点を
考え続けない限り
新しき未来、新しき時代ということを
見据えることなどは 不可能に近い
ベネフィットという ことばの
もたらす その真の意を問い続けない限り
新しき未来の展望を望むことなどは
不可能に近い
つまり「何が」もたらされるべきものなのかを
論拠にしない限り
新しき時代に必要とされているものが
何なのかを発見することは難しい
マネーの幻想は既に崩壊をし
人間は その自ら自身がつくり出した
マネーという概念によって
その主体性が崩されるという事実を
目の当たりにさせられる
つまり 自身の存在基盤となる土台であると
考えられてきたもの自身に
足をすくわれる あるいは すくわれた
ということである
事実はこのように明確に浮き彫りがなされ
崩壊と倒壊という極(局?)面を
迎えることにより その先を考える
必要性にせまられる
人間の意識(イシキ)というものは
危機的極(局?)面において
為さねばならない 選択
というものを その状況下において
選び抜き 見付け出すという行動において
その是非が問われることになる
プロフィット ベネフィット それらの価値基準
というものが どういった視点で とらえられるのか
それが問われている ということである
つまり どういった方向性に基き
どういった未来を想定して仮定するのか
という 判断が選択が 根本より
問われ続けている ということである
支配し 巻きあげて サクシュ(搾取)するという
古い これまでの このちにおける
やり方での 失敗 というものは
自ら自身の選択ミスというかたちで
このように顕現化され あらわされることになり
それらの責任を 人間は
自身で負わされることになる ということの意味を
人間自身が問い その意識領域内で考え続け
次の選択をしない限り
その打開策というものを見付け出すことは
不可能に近い
堂々巡りを同じ場所で し続けているという
その不毛さに 気付かない限りは
その アタマでっかちの領域から
脱することなどは 不可能に近い
ということである
つまり 次の時代をつくるために
ハタラクのか 否か ということが
問われているだけの 話であり
その濁りよどんだ意識領域を
自ら自身が掃除して
盲目の羊から自らの意志で脱するのか
否か という提議が なされているだけの
話でしか ない
当然のことながら その 議題に対する
決議は 自らの意識領域内において
決定が成されなければならないものであり
正しくは その取捨選択が
問われている ということが課題として
用意がなされているものであることを
お伝えしているに過ぎない
それが 正しき認識内における判断なのか否か
あるいは どういった論点を基に
考え出された意見なのかが
徹底的に問われる、ということである
つまりは己の セイ(聖?正?)なる部分からの
解答なのか あるいは ボン なる部分からの
回答なのかが 問われているということであり
絶対的なシン(芯)となる キテン(基点・起点)がそこに
存在をしていない限り
それらの提議は もろくも崩れ去ることになる
揺らがず そして 正しいものであり続けるものであるのか 否か
その真意が問われ そのすぐ目の前に
突き付けられている という状況を
知らなければ ならない
自らの存在の責任が問われ続けている、
というテーマは、全ての人間に課され、
契約が、約束が果たされるのか否か、という
その選択が問われているという事実が、
お伝えをしている 審判という 概念であり、事実である
様々な論点における選択肢が列挙された場合、
ある特定の価値基準における判断を下すのではなく、
多様性と流通性 かかるコストや 経費、費用の面での
練り合わせというものが 必要になってくる
あたらしき 経済性をもたらす 核となり
軸となり得るものなのか 否か
可能性と現実性の両者が そこに
そなわっているものなのか 否か
様々な角度からの視点で
その是非を問い続けることが必要とされる
それらの整合性がもたらされた時、
1本のゆるぎない道筋というものが確実に見えて来る筈である
そのためにも 何をキテン(基点・起点)としているものであるのかを
認識しておく必要性が求められているのである
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