Monday, May 19, 2008, 16:37
(2008.5.19 pm3:45受)
むかえにきたぞと
いうておる
でむかえ
むかえ
きりしま の
みち みちて
しんくん
いざなぎの
くにうみの
おはし なされる
とき うみ の
いざないた
そのさきの
みるもの すべてを
あく れい に
えん まく も
くもの ま く
とう とう と
ながれるは
さみだれ の
みそら ゆへ
うずを まく
その すがた
いとまきの
まきとり を
つるぎなく
よわねの ね
かんばしき
ことも なく
さみだれの
おつる みず(づ?)
ながれ ゆく
あいま にも
さりとてし
さりとてし
みそらゆへ
そらを しり
くもの いと
おつる みず(づ?)
きかしめし
まだら ゆへ
もつる いと
くるしくも かなしくも
しんのいは
とおからず
みちかけぬ
つきの い も
かけ おちぬ
こと なき を
つれゆく わがみ の
いず(づ?)る つき
いと せぬも
よき せぬも
うつす みと
わのなかに
みちを つけ
つけ たらむ
ひのでも よあけも
すべからく
ちゅう の いと
はこぶ あし
そのさきの けしきとは
いかように
されるかを
みのゆへ ちゆへ
きめるもの
しらきくの はなの
うつり まど
まどとは そのみの
でいりぐち
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Monday, May 12, 2008, 12:15
(2008.5.11 pm5:37受)
物語宇宙、というものは
ひとりひとりの その人間存在が
役割を果たし 去るまでの
お話の、場というもの
その、ありよう というものを
どのようなものに するのかを
決めるのは自ら自身であり
他人ではない
ひとの示唆した 生き方を
その通り なぞらえるだけの
生き方が
自らの選ぶべき選択では
ないことぐらい
まだ、お判りに なりませんか
生きるすべ、というものは
正しく その道に つながって
いるのであれば、
おのおのの人間に用意が
されているはずの ものなのです
ご自身での判断というものを
つちかうことが できない限り
いつまでたっても
誰かの指示をあおぎ
自らで決定することの
出来ないものとして
生きてゆくことになります
正しき判断、というものは
その事柄について 思索し検討し
考え抜いた結果、もたらされるもので
あることを、もう充分過ぎるほど
お伝えした はずです
いつまでたっても 自分の足で
立とうとしないものは
誰かの、あるいは何かの肩に
もたれかかっていたいと
思っているからです
重たい荷物と、なっているのは
一体、誰のことなのでしょうか
一体、何の為に、プログラムは
用意が、なされているのでしょうか、
ひとりひとりのにんげんが
自分自身で学び、正しく
世の中で、社会の一員として
はたらいてゆくために
ひととして 正しく はたらくものと
なるために 用意が
なされているのです
学びのために
人がつどう必要など
ありますか ありませんか
皆 ひとりひとりの にんげんが
自分自身で学び はたらくための
用意であると
何度お伝えすれば
ご理解して いただけるのでしょう
集会を開き つどうだけの
時間とお金が あるのなら
その 時間と金銭というものの
正しい活かし方を
考えてみては どうですか
誰のため、何のために
支払っている お金なのかを
いちど考えてみることが
必要なのかもしれません
自らの満足のため
という解答が
頭に浮かんでは きませんか
自分が ひとりで
自分の頭で 考えるための
用意であると
一体 いつまで言い続け(ねば?)なければ
ならないのでしょう
ひとりで 学ぶことの意義を
いちど考察してみて ください
その訓練を つちかっておかないと
いつまでたっても
世のため ひとのため
はたらけるものとなる日が
来ることは ないでしょう
不平や不満を口にするものが、
他者のためにはたらくということなど
できるとでも お思いなのか
少なくとも 自ら自身の学びを
終えたものでなければ
参加をしてくる資格はないと
いい機会ですので、
お伝えしておきます
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Friday, May 9, 2008, 19:50
(2008.5.9 pm6:20受)
見ては いるけど
見えては いない
聞いては いるけど
聞こえて いない
それが
あなたと いうものです
よこしまで
さかしらな ものとは
一体 誰(だれ)の
ことなのでしょう
ご自身が
もとめていたもの とは
一体 何 なのでしょうか
穴(あな)の中に
落ちているものは
自分(じぶん)が
あなの中に いることにさえ
気付かない
他人(たにん)の あらに
目を向けて
それの批判をする限り
目には見えない 底なし沼に
足をとられていることに
気が付かない
ひとの あらには 気付いても
じぶんの あらには
気付かない
自分ばかりが
損な目に あわされて
いると 思っているから
ますます 試練は
重たく なるのです
指針となる軸がぶれると
自分自身の方向さえもが
見えなくなります
自らを客観的に見ることが
出来なくなると
あせりや恐怖のようなものが
意識に上がってきます
それで、よいのだろうか
という 空気だまのようなものは
放っておくと倍へ倍へと
ふくらむ一方です
全体図を自ら自身が
把握をしておかないと
思わぬところで
足をすくわれることに
なりかねない
ということを
常に頭の片すみに置いて
おかないと
中心軸のない だるま崩し
のような不安定な状態に
なるのです
足もとを すくわれたら
全体が崩れることぐらい
わかるはずです
自分が済んだら
その他のものの処理が
用意されている
その しくみというものを
すでに ご理解されて
いるはず のことです
やりますか やりませんか
それだけの 話です
選ぶのは ご自身でしか
ないのですから
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Saturday, May 3, 2008, 08:36
(2008.5.1 pm0:23受)
あすは我が身ということじゃ
さっぴいて考える習慣を
つけなければ
負荷はどんどん 増えるでしょう
大きな荷物をかかえて
大きな お山を 登りなさるか
ご自身での 判断力というものを
つちかう ことが 先決で
それを 頭に 入れておかなければ
来るもの すべてを 担うことに
なるのです
聞き、見て判断をするのは
あなた自身であるということを
お伝えしているのですが
今の状況を見ていると、
背負わなくても よいものまで、
受け取り 背負い込んでいる
処理する能力というものは
前へ進むごとに
徐々に増えるものなのですが
遠くにある目標点を手に
入れるために 必要以上の
負荷を自らが 背負おうとして
いることを
客観的に眺める必要性が
あるのでしょう
走れメロスという お話を
読んだことは、ありませんか
より多くの土地を得る為に
自らの限界以上であるという
ことに 気付かず あるいは
意識は、しながらも
許容範囲を超えたものにまで
手を出そうとして、自滅をしてしまう
物語です。
自分なら、やれるはず、という
その自信というものが、ほこ先を
変えた途端、自らへの刃(やいば)に
なるのです
その大きなダメージを受けない為に
相談をしに 来られたのでは
ないのですか
ご自身では、まだ判断することの
出来ない範囲での 意識活動が、
ある意味、警告音を出しているから
ししんとなるものを 確認する為に
来られたのでは、ないのか
意識と、からだは、一体です
意識が先走り、前のめり状態に
なっていることに、気付いて下さい
そのうち、からだは悲鳴を上げる
ことになる
背負えるときに、背負えるだけ、
背負える分、背負うというのが、
ルールです
あれこれ、手を出したいお気持ちは
十分、わかるのですが、
今のままのペースでゆくと、自滅を
することになる。
そうなると、あなたの周りの方たちが
困るということも、意識に入れて
おいてください。
負荷が増え、判断力が
鈍ると、誤ちをおかすことになる
そのしくみを理解しておかないと
違う道を歩いていることに
気が付かなくなります。
正しいのか 正しくないのかは
何かの ストッパーのようなものが
はたらいていると、ご自身が認識
できるのなら、もう、お気付きの
ことなのでは ないのですか
ぎりぎりのところまで来て
意識に関与をするものは
それなりの理由が
きちんと存在しているためだと
いうことに気付いてください
大きな山を越えるのに
わざわざ大きな荷物を背負ってまで
遂行をする必要というものは
ありますか、ありませんか、
基本は 意識に、ひかり
からだに、ひかり、です
片方だけでは、成り立たないのです
何故なら、それは、生きてからだを
持つものの基本となるもの
だからです
からだを持ち、はたらくことの意味を
忘れては なりません
いちど、こわれてしまうと、
回復するための
時間を、とられることになることを、
常に頭に入れておかなければ
なりません
いちどダメージを受けると
その部分を徹底的に攻撃を
受けることに なりかねない
からです
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Monday, April 28, 2008, 13:26
(2008.4.28 pm0:01受)
何かに則って
それを鵜呑みにする限り
あなたの思考というものは
征服されたと
同じこと
教えを与える その見かえりに
何を 請求されているのかを
よく 自分の 頭で考えること
その思考回路が 構築
されない限り
あなたという人間は
いつまでたっても カゴの中の
トリ なのです
当然のことながら ご本人に
その自覚が ない限り
とらわれの身であることに
気が付くことが
できません
よいですか
何かの違和感のようなものを
水面下の意識がキャッチをして
いるから
その解決策というものを見付けるために
精神学というものを
学んでいるのでは ないのですか
聞こえのよい 耳障りのよい
ことばというものは
ひとを惹きつけます
そのことばや 教えのようなものを
遵守(順守?)している限り
自分自身が まっとうな人間で
いられると 思い込まされて
いるからです
その根拠 とは 一体
何なのでしょう
ひととしての正しいおこない
なのか 否なのかは
子どもの時に 教えられては
きませんでしたか
殺すな
偽証するな
盗むな と、
ひととしての当たり前のことを
教えられた記憶は
ありませんか
ひとは何故 こころの寄り処の
ようなものを求めるのでしょうか
それは 不確かな
自分自身というものに
自信が無いから
何かの ひものようなもの
あるいは 手すりのようなもの
もしくは 杖のようなものに
つかまっていたいと
思っているからでは、ないのですか
誰かの あるいは何かの教えに
とりすがっている限り
あなたのこころは それに
依存をしているのです
それが 無ければ
立ってはいられないと
思い込まされている からです
“聞く耳を持つ”ということの意味は
自分にとっての有難いことばに
耳を傾けるということではなく
判別し 分別する 自覚を持つ
耳を、持ちなさい
ということなのです
わかりますか、わかりませんか、
ひとは皆 この教えさえを
守っていれば救われる
ということばに
意識を向けようとする
自分が救われて、助かりたいからです
その思い込みをさせるチカラ、とは
一体、何なのでしょうか
それを、自らのアタマで、考えなさい、
と、言っているのです
多くの人間が そうやって支配を
されてきた歴史というものに
目を向けなければ
それを ひとりひとりのにんげんが
知り、解決をしてゆかなければ
どうなるのか、ということぐらい
想像が つきませんか
そうやって思考を停止したまま
生きているにんげんが
この世に、一体どれぐらい存在すると
思われるのか
九分九厘、と、一厘の数字の
あらわす意味が わかりませんか
成すべきハタラキ というものは
各々のにんげん それぞれに
取り決められている
時期も違えば 当然内容も違う
その正しき役割を果たすための
学びである、ということに
気付いてください
ひとのこころに働きかける恐怖心、
というものは
それがどのような効果を与えるかを
知っている人間によって、もたらされる
強迫や苦痛というものが与える
ダメージが その人間が持っている信仰
というものを手離させる常套手段で
あることを 知っているからです
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