Monday, March 16, 2009, 18:22
(2009.3.16 pm3:受)
依存心が強いまま
相手の言うことに
耳を貸していると
相手のおもい そのものまでを
背負わされることに
なるのです
ひとの おもい というものは
みずからの欲求や 要求
というものを かなえ
実現をさせて欲しいが為に
相手となる人物に向かい
無自覚なまま
放射が なされます
こうであってくれれば いいのに
こうしてくれれば いいのに
といった
ひとの おもいの エネルギー
というものは
それを受け留めてくれる人間の
もとへと届けられ
それらのエネルギーは
体内において どんどん蓄積が
なされて ゆきます
入ってくる量に対しての
処理能力というものが
追い着(つ)かないと
処理しきれていないものが
ご本人の無自覚なまま
闇のエネルギーとして
蓄えられることに
なるのです
それだけの負荷を
受けながらも
ご当人が気が付かない限り
はっきりとした身体の
症状として 顕れるまで
状況を把握することが
出来ないのです
一般的に
「いいひと」と
呼ばれている人のもとには
当然のことながら闇のエネルギーが
集積されることになるのです
処理能力が限界になると
コップから 水道の水が
溢れ出るように
こぼれ落ちて来ることに
なるのです
何度も お伝えをしていますが
ひとの 思いのエネルギー
というものは
闇のデータでしか
ありません
焼き捨てておかないと
溜まってゆくものだということに
気が付いてください
当然のことながら
それらの闇のエネルギーの
処理は 自分自身が
なすべきことであるという
きほん的ルールに
必ず戻らなければ
なりません
どこかの誰かが
何とかしてくれるという
思いを 描いている限り
ご自身の浄化力が
高まる ということは あり得ません
何度も お伝え済みの
ことなのですが
人間相互に
影響を及ぼし合っている
エネルギーを知り
それらを処理するための
学びとハタラキ
という原点に
必ず戻って下さい
ひとは 苦難に陥ると
必ず 自分を助けてくれるものを
求めるように なるのです
そのしくみを 自ら自身の状況を
客観的に 外から観る 視点を
持ち得なければ
いつまでたっても
堂々巡(めぐ)りの、
同じ場所から
離れることなどは
できないのです
くり返し お伝えをしますが
自ら自身の 救世主は
自分自身 でしか ありません
自分以外の 何ものかに向かって
助けを求めている限り
その意識の向かうべき 方向性
というものには
気が付くことが
できないのです
特定のかたについての
伝達事項ではないことに
気が付いて下さい
自分にとって
それが該当をしている内容で
あれば あるほど
ひとは それを
自分のことでは ないだろう
と否定を したがるもの
なのです
まさか 自分が
それであるはずではない
という 一種の 言い訳のような
文言は
自分は それには 当てはまっては
いないはずであって欲しいという
恐れや不安から
もたらされるものだからです
そうやって、
そんなはずではないと
否定をするものが
自己防衛の
かりそめの 安堵感
というものの正体
であることに
気が付かなくては
なりません
自分は そんな
ひどい人間ではない
あるいは
世の多くの悪人よりかは
マシである という
思いを 抱き続けている限り
その立ち位置からの
成長は
望むことなど
できないのです
たにんの目の中に
ちりを 見つけても
自らの中にある
はりには 気付かない
そうやって 自分以外の人間と
自らとの比較をしている限り
進路の認識の出来ぬまま
歩こうとしているという事実に
気が付かなければ なりません
自らの問題が解決できない限り
当然のことですが
周囲にいる人達の状況が
改善されるということは
あり得ない からです
どこかで 何かに
何とかしてもらおう という
意識を 持ち続けている限り
現状打破の 機会というものは
生まれようが ないのです
自らの頭で考え
判断をし、
実際に行動に うつすこと
自らを変えるのは
自らでしか ありません
たにんを助けたいなどと
思うのならば
あなた自身が
自らの中にある その傲慢さに
気付き
自己の方向性と そのあり方を
変えない限り
現実の顕現をしている世界においては
何の変化も、もたらされることは
ないでしょう
たにんの思いに影響をされ
自らの基軸が 揺らいでいるようでは
立っていることさえ
おぼつかなく なります
自らが 自らの状況を
客観的に かつ冷静に
見続けなければ
自分が一体 どこに
どのような状況で
存在をしているのかさえ
わからなく なるのです
自分自身を客観的に
判断をすることが できないと
とらわれます
それは いわゆる 迷宮という
場を指し示します
何を するために 今存在をし
何をもって
どの到達点への道のりを
歩みたいのかを
自分自身が 自覚をしておかないと
あやふやなまま
その生を まっとうし
残存期間を過ごすことに
なるのです
ご理解をしていただけましたでしょうか
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Thursday, March 12, 2009, 20:45
(2009.3.12 pm6:40受)
おたけびを
あげたいと
もの もうすもの
あかい とら
あかき ちしおの
もえる もの
ものふ ものふの
もの もうし
いきた あかしを
のこす ため
いき うつし
なり
さため なり
みえた まなかの
あかき とら
くるほしければ
み
まごうこと
なかれ
きり たちぬ
その たちぬるを
わか と わか
わかれ いづるは
くろと あか
つるの まきぬる
くろと あか
まん の
はたらき
くうをきる
ただすべき
みちの なり
とは
あさはか
なるを
もとの みち へと
ただす もの
うごき つかわす
ものの み は
いくたのせい ほ
こへし もの
とらわれなるを
とき はなち
うごくるものをに
さしめしは
みなり ととのへ
から くる を
から くる を
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Thursday, February 26, 2009, 11:20
(2009.2.25 pm10:03受)
そなた
ちいとも
感謝を しておらんかった
じゃろう
文句ばっかり
言いおってからに
積さんに
感謝を するがよい
わしはちゃんと お役目をはたして
おるぞよ
あの ひと にとっての
この3年間は
お勉強 期間
おつらい おもいも
されたことじゃろうに
ただその過程をふまえて
おかないと
これからの ハタラキに
役には 立たん
じゃから そのための
おべんきょう期間
というワケじゃ
そなたにとっての
この年明けからの 動乱も
同じことじゃと 言えるのじゃ
荒波を 乗り越えて
かいくぐってきたものではないと
よそさまのために はたらくということは
出来ないから じゃ
うけたまわって頂戴した
ことばの 意味が
どれほどに 大切なことなのかを
そなたは おそらく もう
知らされているはずじゃ
つくり そだてて 保持する未来とは
どのようなもので あって
欲しいのかを、 かんがえなさい
そうしたならば おのずと
こたえは
でてくるはずじゃ
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Thursday, February 26, 2009, 11:18
(2009.2.25 pm2:05受)
物語宇宙 とは
あなたがたが 生きている
時間的経緯を 顕す
ある次元における
物質とともに 空間を有する
次元世界とでも 言うべき
個々の存在の有する 世界
という 存在の ことです
ひとりひとりの人間のなかで
つくり出された お話には
その つくり出したもの自身が
責任を持って遂行をしなくては
ならないものなのです
あなたがたが 見聞きをし
それに対する 反応を どのようなものとして、
おもてに あらわしたのか
それらの事実は そのものの
たましい という ひとつの場に
格納を され
時間の経過とともに
その人間のストーリーは
展開を なされて ゆきます
あなたがたに お伝えをし続けている
概念とでも いうべき
伝達事項は
見るものによっては、激しい拒絶反応をもたらし、
一種の たましいの
錯乱状態というものを 引き起こします。
その激しい拒否反応とでもいうべきものは
自らの犯してきた罪に対する
責任の追及が なされているということについて
潜在意識とでもいう 意識領域に
一種のパニック的反応が もたらされるためなのです
拒絶をし 相手を攻撃するのは
個々の自由なのですが
自らのした おこないや 心のエネルギーの
放射という行為については
必ず責任を取らされることになります
それらは全て、あなたのたましいの中に
一分(いちぶ)たりとも 違(たが)わずに
正確に記録が なされ続けているから
なのです
ひととして 正しく 生きるものという
きほん的な お話が
欠落をした状況で生きているものほど
他人をののしり、否定をします
そこまでして 自らの正当性とでもいうべきものの
主張を したがっているもの
とは
一体 何もの なのでしょうか
正しきもの とは
他人の負荷を軽減することが
できるもの のことです
自らの まき散らかした 闇のおもいのデータは
一体誰が処理を
し続けているのでしょうか
自らの物語宇宙に対する責任は
当然のことながら
その つくり出した当人が
背負わされます
ふるき神々の世界は
既に終わりを告げました
そのことを お知らせしているのが
最終知識という 書なのです
おのおのの人間が気付かぬうちに
もう 次のステージへの移行は
はじまっています
つぎの あたらしい世 のために
人として はたらきますか
はたらきませんか
センタク をし
ある到達点に向かって
自らのたましいを研磨して
前へ進みますか
進みませんか
それらの センタクが
ひとりひとりの人間という存在の
前に 提示がなされているという
話でしか ありません
もし それが まだ
残っているのなら
あなたのなかの たましいと呼ぶべき
存在に お尋ねになってみるのが
よいのかも しれません
上方に向かって 成長を したいと
願うのか
それとも 見たくはない事実に
目をそらし続けたまま
二度と戻ることのない場へと
去りたいのか
但し、
自らが上方である と
信じ込んでいる 目的地
というものが
その真逆である ということに
気が付いていないだけなのかも
しれません
どう思い込みをしていただいても
それは かまわないのですが
まこと 嘘 いつわり 無く
一方方向の時間軸の流れのなかで
刻一刻と、残存時間を減らし続けながら
改変(改編)しようのない記録として
正しく記録データとして残されていることに
気が付かれたほうが
よいのかも しれません
例の、じぶんは悪くはない
という言い訳を し続けていたいものほど、
これらの事実を受け入れようとは
しないのです
失敗をしたものたちの 未練がましい
思いのエネルギーにとらわれると
相手を攻撃し 自らの賛同者を
必死になって かき集めようと
周囲に はたらきかけます
そのはたらきかけに 対して
集まってくるもの達 とは
一体 なのものなのでしょうか
呼びかけに対して反応をするもの
とは、波長(調)が同調するものでしか
ないのです
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Wednesday, January 28, 2009, 15:57
(2009.1.28 pm2:53受)
へんげ へんげ
へんげを しなさいと
あれほどまでに
口を酸っぱくして
言い続けて いたにも かかわらず
自らの意志で 努力をすることもなく
現状のあり様だけに
文句を 言い続けるもの
成長の 意志の ないものは
属して いる いないに
かかわらず
ふり分けられる ことに
なります
かつての 宗教団体
というものは
そこに 属しているというだけで
恩赦(おんしゃ)をされると
伝え続けて きました
要するに
お金を払い続けて
所属をしている限り
赦されるのだという
言い分が 正当(統?)のものである
という 主張が
なされ続けて きたのです
その主張が 適応(適用?)される と
お考えのかたには
残念ながら
精神学協会に おいては、
あてはまらない
という事実を
お伝えしなければ
なりません
自らの状況に
不平や不満をつのらせながら
文句や 言い訳ばかりを
考える人間が
正しく はたらくものに
なれるのでしょうか
その不平や不満の
もと となるものが
自分は悪くはないと
言い続けているものの
正体 なのではないのですか
すくいや 赦しや 恩赦という
ことば は
ひととして どのような おこないを したのか、
その結果 もたらされるもので
ある ことばで あることに
何故 気付こうと しないのでしょうか
たにんのものまで 背負えないのなら
せめて じぶんの 闇ぐらいは
じぶんで 背負いなさい
自らの暗部の底までも
見る覚悟のないものが
どうやって 正しく はたらくものに
なれると 言えるのでしょうか
はたらき手を 必要としているのであって
自分が たすかりたい人間は
必要ないのです
どこかの何かが 何とかしてくれると
思い続けている限り
永遠に出口を見つけることなどは
出来ないとだけ
お伝えしておきます
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