Friday, October 31, 2008, 18:33
(2008.10.31 pm5:20受)
じちん さい
とは
土地 しづめ
なだめ すかして
みたとこで
あたまを おさえているだけで
そこから きえては
いないのざ
何かが 媒介となり
排出をしないことには
それらの エネルギーが
消失することは ない
鎮(ちん)座をさせて みたとこで、
存在したまま
そこに ある
ゆうはつ地震の ように
あるきっかけが もとで
触発を された ものが
おもて へ 浮き出てくる
ことに なる
だし方は簡単なようで
難しい
出る ときに 扱いを間違えると
周囲に 膨大なエネルギーが
拡散を する ことになる
排出 と その処理 の
仕方 の 伝達 は
しかるべき ところに 届けられる
取り扱い 要注意の
そのもの
もりつちを したうえに
避雷針のようなものを
たて、
一ヶ所に集約、集積をする
うえのぎゃく が
した
したから 吸い上げて
集約 と 集積
てん に まします
てん に まします
(点?ヽ?)
てん、とは
そのみの でぐち なり
いってんに
しゅうせき、しゅうやくを
なす、なり
なす、なり
なり とは その みの なり
はれた ひに やらないと
かくさんを する
周囲に とびちらないよう
くれぐれも
取り扱いに 注意を し
その おこないを
怠ることの 無きよう
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Friday, October 31, 2008, 18:32
(2008.10.31 pm4:受)
オハライ
オハライ
土地バライ
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Friday, October 31, 2008, 15:33
(2008.10.31 pm1:28受)
あいた 口
ふさがらぬ
見かけ倒しの えいへいは
何の役にも たたんぞよ
闊歩して
闊歩して
袋小路の そのなかに
入りて 居場所を 探すもの
盲目の きよの ちよ
探した 足場は
くろ と あか
あかつち の
つち ばらい
くろき ちは
くろき かげ
かげ ふみて
なきものを
じったいの なき
くろき かげ
きっても きっても
つぎつぎ と
あらわれ いぬるは
くろき かげ
はいたついんの おやくめは
だれが 担当
したのでしょう
つじとなる その場所に
あらわれ いぬるは
くろき かげ
きって しょうもう するまえに
かつようほうを かんがえよ
あたまと からだは つかいよう
つかわなければ
いみは なし
脳みそ つかえと
いうておる
おべんきょう
それらは すべて
おべんきょう
かいけつさくを 見つけるための
おべんきょうでしか
ないのです
ひとつ かしこくなるための
おべんきょう でしか
ないのです
ようやく 気付いて
くれたかの
許容量 と ポテンシャル
認識 知力 と 解決策を
学ぶ ため の
おべんきょう
ちっとは 賢く なっている
はずだと
じぶんで おもわんか
使って なんぼの
その アタマ
思いと 思考は
別モノ じゃ
ようやく たどり着いた なら
せっせと 活用せんかい の
意志と ミタマは 一対の
もので なければ 意味は 無い
それが どんな
意志なのか
さっさと 気付いて
くれんかの
シンプルで 単純なもの ほど
ひとは それに 気付かない
いくつもの 色眼鏡 というもので
とっかえ ひっかえ 見てみても
そのひとなりの脚色を
つけて 物事 見てるから
だから 子どもは 知っている
すなおな お目めで 見てるから
だから 子どもは 知っている
あかるき 正しきもの が
すき
子どものころに すきだった
それは 何と いうものか
それを 体現 することが
何かの よういと 思わんか
じゅんび期間と
おべんきょう
それらの よういは
何の ため
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Tuesday, October 28, 2008, 17:16
(2008.10.28 pm3:39受)
灰色のあくま
死んだほうがマシだとは
よもや 誰にも 言わせまい
一瞬、一時(いっとき)を、
正しく 生きることが出来ぬなら
存在そのものの意味さえを
かき消してしまおうとするものに
はやい話が
乗っ取られている、ということ
無駄骨を折る位なら
無かったことにしてしまおう
ということ
その自己解決そのものが
正統(当?)な理由であるとの解釈、
受け取るはずのない
正しい領域からの伝達
だれかさん との つながりさえ
持っておけば
何とか なるに 違いない
あたまの中が 混乱をしていても
誰に 何を どう 相談すれば
よいのやら
ふつふつと 沸(湧)きあがる
おもいの たけは
どこの 誰に 向けられて
いるのやら
たにんの あらを 見つけ出し
それを あげつらい ののしって
それが どういう 悪影響を
相手に向かって 与えているのかを
自らの中の ひととしての
良心というものが あるのなら
いちど 尋ねてみるということを
なされてみては どうですか
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Sunday, October 26, 2008, 11:17
(2008.10.26 am9:38受)
迅速、かつ的確な判断が求められている場合もあり、
その事柄について熟考しなければならない場合もある
誰かに相談をせざるを得ない場合においては
どういった解答を導き出すために
どこの誰に判断をゆだねるのかを
模索しなければ ならない
はやい時期に それらの事柄は 必ず 訪れることになる
相談をする相手と、依頼をする相手を間違えることのなきよう、
常に正しき道につながっておくという自意識を持ち続けていないと
誤った方向に足を向けていることに気付かない状態に
陥る可能性と、常に 隣合わせの状態であることを
意識しておかなければ ならない
問題提起となり得る物事は、すぐさま
あなたのもとへと届けられ、その解決策というものを
求められることになる、打診をしてみるという
ひとつの方法論は、そのことに頼り過ぎると 自らの
思考系の中での解決策を模索するという方法論を
打ち消してしまいかねないものになる
早足で焦り、足をすべらせてしまう位なら、多少速度が
落ちたとしても必ず足を前へ出すことの重要性を
意識しておきなさい、物語は、あくまでも、
あなた自身の物語なのであって、それを運営してゆくのは
自ら自身であるということの基本構造を意識しておかないと、
正体不明の、中心点不在の存在として、
肉体の生をまっとうするものになる
階段を降りて、自らの意志と、自意識で探しに行かない限り、
それを見つけ出すことは できない
その為の道先案内となる 地図が
最終知識という書であり
更に、その先に進むための学びが
会員のプログラムとして存在が なされている
まわりの人間の状況に気をとらわれている間に、
正しき方向性を見つけた人間から
自らのまっとうするべき人生の物語を読み解くものとして
生きてゆくものとなる
他人の芝生を青く見て、それを、うらやんでいる限り
自ら自身の芝生を手に入れることなどは出来ない
妬むという行為そのものが、対象となる人間に対して
どういった影響を与えているのか、
それらを意識下無意識下にかかわらず、
対象となるものに向けている限り、自らの進むべき道というものを
いつまでたっても見つけられないものとして、
存在することになる
聞く耳を持ちなさいと、あれほどまでに
くり返し 伝え続けているのは
自分にとっての都合の良い 聞こえのよいことばだけを
聞こうとする耳ではないことぐらい
何度も お伝え済みの話でしか ありません
自らの意志で自ら自身を変えてゆこうとしないものは
成長の意志を放棄したものと
見なされるのです
暗闇のなかで そういった他者を妬み呪う
エネルギーを放射している限り
本来あるはずの出口を見つけ出すことは難しくなります
自らの意志と判断で自らの状況を改善しようと
しない限り、解決策というものをいくら探しても
見つけることは出来ないでしょう
何故ならば、あなたが している
おこないは
意識しているしていないにかかわらず、
自らが変わろうとせずに 他者を変えようと
しているものだからです
それほどの傲慢というものは、ありません
他人を変えようと思う あなた とは
一体、何ものなのでしょう
何ものが、それを せよ と 指図をしているのかを
一度、考えてみる必要が あるのかも
しれません
くり返し おたずねします
あなたという人間は 一体、何を期待して
何を求め 生き存在をしている ものなのですか
それを自覚することすら出来ないのであれば
目を覚ます ということは 難しいことなのかもしれません
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