ご伝言-13年6月26日 
Thursday, June 27, 2013, 14:12
(2013.6.26 pm8:30)

『精神学』 とは、
 人間精神を、
  学びの対象とした、
 唯一の学の門です。
自らが、エントリーをした、
 その意味と理由を、
今いちど、
 お考え下さい。


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通信-13年6月20日 
Thursday, June 20, 2013, 18:22
(2013.6.20 pm3:30)

物に依存をすると
それが無いと不安な状況に陥る。
頼るということが その人間の杖となり
その杖が無くなると 不安と恐怖で、身じろぎも
出来ない という状況下に
陥る
何かにすがり 助けてもらおうとするルールの中で
生きている限り 物であれ 人であれ
依存をすることでしか 生きてゆけない
根無し草のようなものとして
生きてゆくこととなる
あやふやで不確かなものが
その人間存在の象徴として存在の基盤を
持ち続けている限り
自己の正しき認識、正しき判断、
行ない、行動といったものとは無縁の、
何かに すがり付くような生き方しか出来ないもの
として その場に浮遊をし続ける、
ということである、
何かの助けとしての補助的なものとして捉えるのか、
それとも、そのものに助けてもらおうとして
すがり付くのか
自らの救い主は 自ら自身であると、
予め 伝え続けられていることの主旨は
淘汰され、
自分を救ってくれるものを 永遠に求め続けることの
不毛さに 気付くことが出来ない限り
人として 自己の人生に責任を持ち
判断と行動を共にして
この先 生きてゆくということの理解をせずに
不毛な 残り時間を過ごすという選択をするものに
次のチャンスというものは 無いということを、
伝えておかなければ ならないのでしょうか、
自身の救い主は、ご自分自身です
そのことに 気が付いた方から
次のステージへの扉は用意がなされているのでしょう
見えない何ものかの恩恵を得ようと
すがり続けている限り
自己の状況を 冷静に客観的に見ることは
難しくなります
ひとりひとりの 成長の速度は
ひとによって異なり、
遅いということを危惧して
焦る必要など どこにもないのです
ただ、自らが向かう方向性を
自身で正しく位置付けておかないと
迷路の中で自身を見失うといった状況が
起こり得るのかも しれません
物ごとの動機付けというものを 明確に
認識を しておかないと、
到達点を 決めることさえ出来なくなります。
そのことを頭に置いて、行動をして下さい。


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通信-13年6月2日 
Tuesday, June 4, 2013, 16:07
(2013.6.2 pm6:45)

子供のころから
自分の人間性を殺されて
生きなければならない、
というのは、
とても苛酷なことです。
そうなると、
たましいは逃げてしまい、
その人の人間存在が
お留守の状態になります
お留守の状態になると
よそから入ってきた別なものが
あたかも、その肉体の主人であるかのように
振る舞います
それは とても 大変なことであり、
重大な問題でもあることです
あなたが、
あなたの人生をまっとうするために、
成すべきこととは、
一体、何だったのでしょうか、
それが、よそから入って来たものの
影響を受け続けると
見えなくなって しまいます
“これを、するために、
 生まれて、来たんだよね。”
という、本来の たましいのプログラムから
入って来た別なものの影響を受けた
違ったプログラムへと
書き換えられて、しまいます。
それほど、不幸で悲しいことは、
ありません
自分が、自分自身であるため、
あなたが、あなたであるため と、
お伝えをしていることの意味を
きちんと理解と認識をすることが
出来るのなら、
本来の、まっとうするべき正しき人生
というものに、きちんと照準を
合わせるために、
精神学の学びがあることに
どうか
気が付いて下さい
それぞれの違った目的と方向性
というものが、
もし、明確に認識をすることが
出来たのなら、
それが、1人1人の違った人生の
生き方を、見つけた、
ということ、なのでしょう。
あなたは あなたが好きだった
自分の得意なことを すればいい
やりたくもないことを
無理に続ける必要など
ないのです、
それが収益につながるのか
つながらないのか、ということを
危惧する前に、
徹底的に、とことん
つきつめるまで努力をして
やり尽くしたのですか、
どうですか
やりたかったことを
やり尽くすことが 出来たのなら
あなたはあなたが
これであると 判断をして
つき詰めたところまで
努力をし尽くすということを
やり遂げることが
出来たかたなのでしょう
それらのことを
やり終えた方には
悔いも後悔というものも
存在すら していないはずです
思いを残さず に
この世を 去る ということの意味を
理解された方 には
次の たましいの 成長のステージが
用意が なされている はずです
磨き、炉にくべて 精錬をし、
不純物を焼き捨てた
たましい というものが、
どのようなものであるのかを
想像を(創造を?)
してみてください
それらは とても
自らの たましいのプログラムに対して
忠実であり、誠実で、
あるはずです、
進化の方向性に対して、
ウソをつかない、とは、
そのようなことなのです
ご理解をして いただけましたでしょうか


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通信-13年5月19日 
Monday, May 20, 2013, 11:24
(2013.5.19 am9:50)

ひとは ひと、
自分は 自分、
くらべない。
自分が何をするために
わざわざ この時を選んで
生れてきたのかが 分かるなら
他人と自分を くらべることの
あさはかさに
気が付くはずです
自分にないものを
持つもののことを妬み、
その思いを 相手に向けるということで
奪おうとすることは
正しいことでは ないはずです
自分が何をするために 生まれ
そして、どのように 生きてゆくのかを
決めるのは自分自身です
「自分は これをするために
 生まれてきたのだ、」という
認識を持つことが出来るなら
他人と自分を わざわざくらべて
持つものから 奪おうという 意識など
生まれようが ないはずです
あなたが あなたであるため、
と、
伝えることの意味が理解することが
出来るなら
他人と 自分を比べようとする
意識など 生まれようが ないはずです
自らの存在の目的と、
その存在の意味について考えたとき、
自分の人生の目的は これである、
という明確なこたえを見つけることが
出来るなら
あなたは 受け取ったものを
正しい目的のために
使うことが 出来るもの、なのでしょう
それらの目的と方向性は
ひとりひとりの人間だけではなく
この地球の存在の目的にも
言えることなのです
“出会いと学びの場”と
お伝えしていることの意味を 理解することが
出来るのなら、征服と略奪のために
繰り広げられた このちの歴史を学び、
本来の目的のために お返しすることの
必要性と意味を 知り得ることが
出来るはずです
地球の主人は 人間ではありません
支配し 征服し侵略をするという
その行動原理のなかで 生きている限り
受け取ったものを軽くして
お返しする、という本来の目的とは
かけ離れた場で 生きてゆくものと
なることに 気が付いて下さい、
今が時代の転換点であることに
気が付くことが出来るなら、
本来の目的のために 地球を返すという
ことの意味と、
ひとりひとりの人間が
知り、担うということの意味と目的が
同じことであることに
気が付くはずです、
自らの人生の目的と方向性は、
このちの存在の目的と方向性にも
リンクをしています
人と人が妬み合い 殺し合いをし
略奪をすること と、
土地を占有し所有し 自らのものであると
主張をし 自らの正当性を声高に叫ぶもの、
それらの歴史を経てきた この地球上で、
あなた方は 何を学び
そして どのような認識を 持ちますか
誰かが何かを はじめることを、待ち、
傍観者として 見ているだけですか
それとも 自らが 決断をし 行動を
し始めますか
時代の変わり目である という
このちの変化を察知することが出来るなら
なぜ わざわざ この時代の このちを 選び
生れてきたのか、というシンプルな問いに対する
解答を見つけ出すことができるのかもしれません
何故なら、そのこたえは
あなた自身のなかにしか、ないから、(ないため)だからです

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通信-13年4月11日 
Thursday, April 11, 2013, 14:25
(2013.4.11 pm1:14)

パブ(バプ)テスマの序曲(?)
因縁対決は もう終わりにしたまえ
いくら言い聞かせても わからぬものに
伝え続けることの不毛さに
気が付かないと
それだけで 人生を終えることになることに
いい加減に気が付かれては
いかがかな
見えないものを 見えると 言いたいものが
いくらでも近寄ってくることに
気が付かないと
一生を無駄に過ごすことに なります
残されている時間をどのように使うのかは
各々個人の裁量(宰領?)に委ねられている
見たくないものを 見る、 ということと
見えない世界に興味を持つことは
同じことのようですが
全く別のことなのです
知りたいことを 知るということと
知るということは 担うということ の
意味の違いについて
お考えになられては いかがでしょうか
見えないものの世界に興味を持つということは
知り、担うだけの能力がないと
引き込まれます
見える、見えない、ということに こだわって、
躍起になって その能力を手に入れようと
努力をしても
あなたが得たいと思っている
その千里眼というものは
正しい目的を持っている方でないと
与えられることは ないのです
超能力者になりたい方は
この世に五万と(?)存在しますが
その能力のほとんどは、魔力と呼ばれているものです
なぜなら その能力は
聞きたいこと 見たいことだけを
実現化させようとする
利己的なものでしか、ないからです
人のために 使う、と言いながら
自己満足(瞞足?←欺瞞の瞞)を 手に入れようとする
方向性を持つもの だからです。
ほんとうに 正しきもの、とは
他人の負荷を もらい受けて
その方の負担を 減らしてあげることのできるもの、
の、ことです
指令を出して、物事を自分の思った通りに
動かそうとする ちから、とは
既に学んだはずの 魔界のちからでしか、
ありません
普通の人間は、そういった能力を
手に入れたいと思い、願っています
精神学が伝え続けていることは
それとは対極の立場にあります。
そのことに気が付いた その時が、
目が覚めた、
ということなのでしょう。
                  (以上、終わり。)

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