通信-08年11月10日 
Tuesday, November 11, 2008, 13:53
(2008.11.10 pm0:50受)

ホサとは
ササエル 役わりです
しじされた 通りに
つきしたがって
従う のでは ありません
下で 支える ものでなければ
役割は まっとう
できない からです
ひとの うごきを 見ながら
何が 必要 な ことで
どう 判断を し
動くのかを
見定めて 行動を
起こす ことが
求められます
なんども 繰り返し
お伝え している ことなのですが
正しく 物事を 考え
判断をし
行動を する 為に
浄化と 上昇が
用意を なされて います
不安や おそれ
といったものが
頭を もたげて あらわれてくると
冷静な判断力というものが
ソガイされることに なります
慌てず 焦らず
すこしの時間においてでも
常に じぶんが
ひかりに つながっているもので
あることを
意識 し続けること
です
おそれや 恐怖 というものは、
倍へ倍へと 増幅し
あたかも
それが 全てであるかのような
意識の状態へと
変化をしてゆきます
お伝えをしているように
今の 世 では
ひとの出す
闇の エネルギー というものは
増幅を し続けて います
それらは
経済の 仕組と 結びつき
今までより より大きな
ひとの無意識下での
恐怖 というものを
あおり続けて いるのです
じぶんにとっての重要なものの
位置づけ というものが
明確に できて いないと
自らが この世で 生きてゆく上での
こころの より(拠)所
あるいは しじく(支軸?視軸?)
となるものが 何なのかが
わからなく なります
自らが めざすもの とは
何なのか
あるいは 向かおうとしている
方向性というものが
何なのかを
自ら自身が 把握しておく
必要が あるのです
見たことも なく
聞いた ことも ない
その 知識 というものは
受け入れることのできる人間と
できない人間 とに
ハッキリ わかれます
その中間 というものは
存在 していません
残念ながら その比率は
半々 では ないのです
何故なら ひとというものは
自ら 自身が 築いてきたと
信じたがっている ワク組みや
概念といったものから
はずれて 一歩前へ出る
ということを 望まない者が
多いから なのです
つまり 新しい ひとの かたちの
あり方を 選択しようとする人が
極端に少ない ということを
意味しているから なのです
居心地のよい 快適な世界が
好きなひとにとっては
受け入れ難い ことなのかも しれません
厳然とした ルールにおいて
用意が なされているのが
審判というシステム です
自らの行動や言動というものは
当然のこととして
こころの中の思い そのもの までもが
あらわにされるのです
その ルール というものは
すべての 人間に 適応されるのです
当然のことながら
言い逃れや 言い訳というものは
通用しない
事実は 事実として 正しく記録が
なされているからです
正しく ひととして
生き抜いた ものであるのなら
そのシステムとルールを
望み求めるものであるはずです
たにんと じぶんを
比べる必要など
どこにも存在していない
筈だとは 思いませんか
じぶん ひとりで その審判の場へと
立って 堂々と その
しんい を 問う 勇気が
有るのか 無いのか
その こたえは
あなた自身が 既に
知っている筈 だとは
思いませんか

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通信-08年11月5日 
Wednesday, November 5, 2008, 17:13
(2008.11.5 pm1:37受)

みなしごの ゆくへ

(2008.11.5 pm2:06受)

サタンの ち
開き たもうた
ちの あなに
呼びかけは
なさざるな
もっとけよ
もっとけよ
カギ穴に
さす 鍵は
もっとけよ
さし込んだ
そのままじゃ
そのカギ 開(ひら)きは
せんの じゃ と
アトランティスの
そのちの ゆくへ
なにが そのちを
破壊した
ちのものと てんのもの
ふたつの はたらき
こうさ(交差?)をし
しるものに 伝わった
ゆくへ ゆくへ
そのちの ゆくへ
見るものと
聞くものと
それをつたえ
まもるもの
いのちの ち
けし たもう
それらの いし が
はたらいた
とらわれて
足止めを くらい
いくつかの 障害を 乗り越えて
きた み ち は
いくつかの 足おと を
残し 探し求める ものに
伝えられる その日と 手段を
ぎんみ しながら
まち のぞむ その日を
支え に しながら
遠き みちのりを 経た
その のち の よの
すがた ありかた
遠からず や

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ひつく文書-08年10月31日-3 
Friday, October 31, 2008, 18:33
(2008.10.31 pm5:20受)

じちん さい
とは
土地 しづめ
なだめ すかして
みたとこで
あたまを おさえているだけで
そこから きえては
いないのざ
何かが 媒介となり
排出をしないことには
それらの エネルギーが
消失することは ない
鎮(ちん)座をさせて みたとこで、
存在したまま
そこに ある
ゆうはつ地震の ように
あるきっかけが もとで
触発を された ものが
おもて へ 浮き出てくる
ことに なる
だし方は簡単なようで
難しい
出る ときに 扱いを間違えると
周囲に 膨大なエネルギーが
拡散を する ことになる
排出 と その処理 の
仕方 の 伝達 は
しかるべき ところに 届けられる
取り扱い 要注意の
そのもの
もりつちを したうえに
避雷針のようなものを
たて、
一ヶ所に集約、集積をする
うえのぎゃく が
した
したから 吸い上げて
集約 と 集積
てん に まします
てん に まします
(点?ヽ?)
てん、とは
そのみの でぐち なり
いってんに
しゅうせき、しゅうやくを
なす、なり
なす、なり
なり とは その みの なり
はれた ひに やらないと
かくさんを する
周囲に とびちらないよう
くれぐれも
取り扱いに 注意を し
その おこないを
怠ることの 無きよう

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通信-08年10月31日-2 
Friday, October 31, 2008, 18:32
(2008.10.31 pm4:受)

オハライ
オハライ
土地バライ


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ひつく文書-08年10月31日-1 
Friday, October 31, 2008, 15:33
(2008.10.31 pm1:28受)

あいた 口
ふさがらぬ
見かけ倒しの えいへいは
何の役にも たたんぞよ
闊歩して
闊歩して
袋小路の そのなかに
入りて 居場所を 探すもの
盲目の きよの ちよ
探した 足場は
くろ と あか
あかつち の
つち ばらい
くろき ちは
くろき かげ
かげ ふみて
なきものを
じったいの なき
くろき かげ
きっても きっても
つぎつぎ と
あらわれ いぬるは
くろき かげ
はいたついんの おやくめは
だれが 担当
したのでしょう
つじとなる その場所に
あらわれ いぬるは
くろき かげ
きって しょうもう するまえに
かつようほうを かんがえよ
あたまと からだは つかいよう
つかわなければ
いみは なし
脳みそ つかえと
いうておる
おべんきょう
それらは すべて
おべんきょう
かいけつさくを 見つけるための
おべんきょうでしか
ないのです
ひとつ かしこくなるための
おべんきょう でしか
ないのです
ようやく 気付いて
くれたかの
許容量 と ポテンシャル
認識 知力 と 解決策を
学ぶ ため の
おべんきょう
ちっとは 賢く なっている
はずだと
じぶんで おもわんか
使って なんぼの
その アタマ
思いと 思考は
別モノ じゃ
ようやく たどり着いた なら
せっせと 活用せんかい の
意志と ミタマは 一対の
もので なければ 意味は 無い
それが どんな
意志なのか
さっさと 気付いて
くれんかの
シンプルで 単純なもの ほど
ひとは それに 気付かない
いくつもの 色眼鏡 というもので
とっかえ ひっかえ 見てみても
そのひとなりの脚色を
つけて 物事 見てるから
だから 子どもは 知っている
すなおな お目めで 見てるから
だから 子どもは 知っている
あかるき 正しきもの が
すき
子どものころに すきだった
それは 何と いうものか
それを 体現 することが
何かの よういと 思わんか
じゅんび期間と
おべんきょう
それらの よういは
何の ため

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